アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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子のこころ親は知らず 岩手の中学二年生の自殺と一葉の今日性 アリアドネ・アーカイブスより

子のこころ親は知らず 岩手の中学二年生の自殺と一葉の今日性
2015-07-17 08:36:59
テーマ:文学と思想


・ 岩手の中学校でおきた列車自殺の事件は背景として家族の崩壊があったと云うことにより心が痛む。樋口一葉の登場人物が語る言葉のひとつに一葉の核心を突く文言があって、それは両親が揃った家は長者の暮らしである、と云うものである。この中学生の家庭はある事情で両親が分かれて暮らすようになり少年は一旦は母親やその他の兄弟たちとともに東京に暮らしたのだが一人で暮らす父親を慮って郷里に帰って行ったのだと云う。長男と云うものは不思議なものでこのような身内の不幸があるとまるで自分の責任のように感じてしまうところがあるらしい。子は鎹(くさび)と云うけれども逆にいえば両親の不和を我がごとのように過剰に感じてしまうのも子供たちなのである。特に長男や長女は序列関係からどうしてもそうなってしまうようである。
 ところで樋口一葉の文学は流麗な文体に幻惑されて清貧の中で夭折した女流文学者の儚げなありし日の映像であるとか、日本最後の女であるとかの形容が相応しいのだろうが、通底するのは擬古典的文語体の雅やもののあわれなどではなく、子の親に対する思い、子供のこころ親は知らずと云う常套句とは正反対の現実が意味するものなのである。
 『別れ道』では、親の心子知らず、あるいは子のこころ親は知らず、何れでもよいが、そもそも親の顔すら記憶すら失われた棄民としての底辺の差別に生きる二人の娘と少年の話である。子供のこころ親は知らずとすらいえない世界である。一葉が明示的には書いてはいないけれども二人は儚い、擬似の姉弟関係をそれとはなく紡ぎ始めていたのでもあろうか。みなしごの娘にとってきりょうさへ好ければゆえあって妾のようにしてお金持ちの家に貰われていく運命は当然のことでもあったのだろう。それを少年は不人情なことであるとなじるのであるが、不人情なのは娘の選択なのか世間のしきたりなのかは泣きくじゃる少年の表情からは分からない。また相手方の娘のお京は表情が消えたキャラクターとして一葉文学の中でも卓越した位置を占めているヒロインであることも付け加えておく。
 有名な『たけくらべ』のなかに三五郎と云う道化の役割の少年が出てくるが、廓を中心とした下町の経済機構のなかで自然と子供たちの序列も表町組、横町組みと経済的格差を再生産するかたちで別れて、それがロメオとジュリエットやウエストサイドストーリーのように相似形において大人社会を反映している。三五郎の特異なたち位置は彼の家族が家主の賃貸関係や金貸しとの借款関係などで両方の縁を程々に維持しなければならないという点にある。つまり三五郎は子供なりに両方に義理を尽くさなければならないと云うことが村祭りの風景を通して面白おかしく描かれている。樋口一葉の筆が辛辣なのは、シェイクスピアの構図とは違って、曖昧化された中間的な存在の三五郎がことあるごとに今までも犠牲の羊として供えられていたらしいことを暗示している。子供が親のツケを払うと云う現実がここにもややコミカルな泣き笑いの精神のなかに描かれている。もちろん『たけくらべ』最終章の、花魁になりあがることを無邪気に喜ぶ親と美登利の無表情との対比もまた、子のこころ親は知らずであることは言わずもがなのことだろう。
 『にごりえ』の世界も私見によれば愛憎の男女の物語であるよりは、お力の子供の世界への痛いような郷愁が生んだ悲劇である。源七か結城朝之助かと云うことは一葉の研究家には申し訳ないが本質的な問題ではない、と考える。
 『大つごもり』の少女に二円の盗みを決意させるのも、義理ある養家の想いであると云うよりも、少年を使いに出した養家の子供に読んだ自分自身の影である。自分と同じ悲しい思いをさせたくないと云う想いである。『十三夜』は心を殺しても婚家に帰ってくれ、つまり死んでくれと親から説得を受ける話であるが、若い母親を立ち直らせるのは、寝かせつけてきた子供の寝顔であり、いまは車引きに身を落とした幼馴染の青春の想いなのである。親子は普遍のきずなと云われながら親子は本質的な経験には繋がりえないと云う、冷徹な認識がある。一葉の日記を読むと随分辛辣な批評や本音が散見するが、子のこころ親は知らずだけは書かれていない。一葉は相手によって違った表情を見せたが孝行娘を演じることに関しては表裏がなかったのでわたしの指摘などを知ってもせせら笑うだろう。
 さて、いじめの話に話題を戻せば、いじめの問題はたまたま異種のものを仲間内から疎外すると云うことだけでななくて、大人の社会が功利性や合理性の貫徹する経済的論理のなかで組み込まれていく論理と倫理の冷酷のなかで、なんとか人間的な抒情を繋ぎとめるべく努めた中間者に対するテロ行為のようにも思われる。あるいは閉鎖的な管理下社会の環境のなかで人間の関係性の単位は外圧と内的反発力によって釣り合わなければならないから、誰でもよいから排斥の対象を必要とすると云う無慈悲の組織の論理が背後にはあるのかもしれない。子供は親を鏡として育つのだとすれば、金融や企業社会の勝者をことさら持ち上げる風潮は、大人の世界で繰り広げられている非情の論理を無意識のうちに繰り返し反芻していると云うことも言えないことではないのである。
 もう一つ言えるのは、大変云いにくいことであるが親も知らないことで学校を責めるメディアの自明化された論理である。確かに報告の詳細を読むとこんなに酷い教育現場があるのか、事なかれ主義の教師たちが横行していると云う現実は分かるのだが、過剰に親に心配をかけまいとして制度としての隠蔽体質に加担した子供の世界のイロニーの苦さは変わりはしないのである。
 子供は親の背中を見て育つと云う言葉が美辞麗句として語られる限り駄目なのである。親は方向転換をして向き直ってお腹を見せて向き合うべきなのである。なぜなら親のみが世界でただ一人なしうる行為であるのだから。