アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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一葉『大つごもり』と『十三夜』 アリアドネ・アーカイブスより

一葉『大つごもり』と『十三夜』
2015-07-10 23:10:34
テーマ:文学と思想

 

・ 『大つごもり』は貧しさゆえに、盗みをしてしまう娘の話である。盗みと云う行為が大文字の倫理や道徳の見地からどう見るかと云う次元以前に、犯さざるを得ない事情を、一葉は義理と人情にからめて語る。一読して得られる印象は、金満家の奉公先の人間性の良し悪しよりも、子供をそこまで追いこんでしまう大人の世界の非情さである。
 話の結末は、周知のように、金満家の家のドラ息子が歳の瀬に遊ぶ金欲しさに箪笥の引き出しの有り金に手を付けただけでなく、有り金全部懐に入れてしまったので、娘の盗んだはした金も自然と帳消しになってしまう、と云うものである。ドラ息子は娘の窮状を知っていて、粋な取り計らいをしたと云うべきか。そこのところは、一葉は朦朧体を利用して明瞭には描いていない。

 『十三夜』は、皓皓とした十三夜の月夜の晩、婚家には二度と帰らぬつもりで実家に帰った若い妻が、貧しい両親の、ただひたすら娘の出世を単純に喜んでいるのを見るとなかなかに云い出せず、逡巡を続けながら、それでも娘の普段とは違った気配に気がついた両親の前に、自らの固い決意と思いを述懐してみせる。母親は大いに同情し、父親はそれでも翻意するよう何とか説得を続ける。若い妻にしても自分の事情だけではなくて、実家に残してきた一人息子の事を思うと、どうしてよいのか分からないのである。
 実家のどうにもならない貧しさ、それからどうにもならない自分のこれからの行く末などを思うと、両親の諄々とした説得を受け入れざるを得ないのか。この時代には考や忠と云う概念が生きていて、子供はそうした親側の概念に必死に自分自身を合わせ、一致させようとして生きる姿がなんとも痛ましい。
 『十三夜』の若い妻は、飽きっぽくていまは邪魔でうっとおしくなった夫の心変わり、何かにつけてつらく当たり言いがかりを言う、鬼のような亭主がいる実家に、死んだつもりになって生きていこうと決意するところで終わる。つまり、去るも地獄、残るも地獄、と云うわけである。
 もちろん物語は、これだけでは終わらないので、一葉は最後に十三夜の美しい月夜を背景に、初恋の話を持ちだしてきて、美しい風景のなかに読者を慰めてくれる。
 誰しも経験があるのではなかろうか。いくら考えても右に行っても左に行っても、今後の自分に立つ瀬があろうとは思えない岐路に立って、自分よりはより不幸な人に出会って、自分の事情は隠しておいて、相手の話に耳を傾け、助言のようなことをしているうちに、何となく自分の方が慰められて、こうしてでも生きていくほかはないと、達観ににた諦めの境地に達している経験が。
 
 『大つごもり』が悲しいのは、まるでこの日だけは奇跡が起きてもおかしくないとでもいうように、大晦日の日に小さな奇跡が起きる話であるが、娘を取り囲んでいる現実は何一つ変わりはしないのである。
 『十三夜』は、人を励ましているうちに何とか自分が励まされたような気分になって、死人のようになった自分の遺体を引き摺って明治の中期を生きていく女の話である。つまり娘の魂はここで死んだのである。

 最近、一葉の文学の新しさを云うものをしきりに考える。
 語られる登場人物たちは、封建的な美徳や価値観を体現して、何とも不器用で窮屈な生き方をしている人物である。かかる古い社会の出来事を、一葉は固有の古臭い文語体で語る。一葉の何が新しいのか、と云われそうである。
 一葉の新しさとは、語られる内容や描写の内容にあるのではなく、語り方が新しい。語る、その切り口が新しい。封建制の美徳や倫理的項目に殉じると見えたものが、子供の世界の固有さにおいて語られる語り口がなんとも新しいのである。
 『大つごもり』においては、娘に最終的に盗むと云う反社会的な行為を履行するのは、娘が奥様から借りれたはずのお金を受け取りに来た実家の少年の気持を見ていられないからである。実家の親は娘にとって本当の親ではなく、早く両親を亡くした娘を引き取ってくれた義理る親戚なのである。娘が守ろうとしたのは、子供の世界なのであり、子供の世界が対象的な世界として見え始めていると云うことは、娘にとっても一つの時代の終わりを意味している。
 かかる事情は、実際の親子関係の世界に於いても変わりはしない。『十三夜』では若い妻が外の世界に見た同じ現実が、相似形の形で、実家の家族と云う形態のなかに、論理として生きている。つまり、外側にみた現実と同じものを自分が生い育った家庭の内側にもみなければならない、つまり内にも外にも救いはないと云うお話である。実際は、家庭や家族こそ最後の救援の砦にならなければならないと考えられているのに、実際には家庭とは外側の論理の出張所のごときものであったのである。

 一葉の世界に生きる歳のいかない子供たちを堅い桎梏の世界に雁字搦めにしているものは、物理的な権力や貧富の格差というような環境ではなく、その時代を支配していた、目に見えない倫理や道徳の諸項目とその論理である。
 かかる窮屈な世界から解放されるためには、単に、強かに生きる、と云う決意だけでよいのだが、実際には良い子を演じなければならない一葉の文学の登場人物たちはその世界の壁を、言語の壁として越えることが出来ない。心の持ちようとして純度が高い持ち主の子供が、大人の世界が建前としてしか信じていない価値観に殉じると云うところが、わたしには如何にも現代的な主題であるとみえるのである。
 それを一葉その人の側にとらえ返して言うと、あれほど言葉の巧みさにおいて際立った一葉にして、イロニーと云うのかアンビバレンスと云うか、言葉はますます超えることのできない限界として彼女の前にそそり立っているのである。