アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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一葉『ゆく雲』など アリアドネ・アーカイブスより

一葉『ゆく雲』など
2015-07-11 15:41:45
テーマ:文学と思想

 

・ 『闇桜』や『うつせみ』のような作品を一葉自身がどのように評価していたかは分からない。前者は『たけくらべ』の逆方向の変奏曲、恋も愛も知らずに育った幼馴染が年頃になって、ひたすら相手を美化するあまりに叶わぬものと思い諦め、病身のなかで命絶えていくと云うお話、と云うか美談。
 『うつせみ』は、一度だけの愛を裏切ったと云う自責の念が、良心の呵責に責め立てられるように狂気のなかに命永らえる、と云うお話。狂人でもいいから、形だけでも一日でも命永らえてほしいと云う親の心情が切ない。

 また少し系統の違ったお話としては、『うもれ木』と『雪の日』などがある。前者は、古典的な倫理や徳目に殉じる気持ちが、いつの間にか不遇な処世のゆえに一徹さや頑固さと変わり、兄妹の美質がまんまと悪意をもった人間のために利用されてしまうと云うお話。最後は失意のうちに最愛の妹の生命すら奪われて、古薩摩の絢爛たる作陶と云う美的な概念のなかに死ぬほかはなかった愚か者のお話。
 『雪の日』は、『うもれ木』の兄妹が古い倫理観にとらわれてぎこちなくも堅苦しい生き方の果てに自滅するほかになかったのに対して、かかる封建的な古い頸木を脱して主体的に生き方を選んだつもりでいたのだが、故郷も捨て、長年早世した両親に代わって面倒を見てくれていた親代わりの伯母をも失意の果てに死に追いやって、挙句は恋人にも捨てられたらしい、と云うとんでもないお話、わたしがすべて悪かったのですと云う述懐は何とも虚しい。
 『雪の日』には、むしろ一葉の伝記的な事実との照応関係が興味深くて、本作を書いていたころ半井桃水との関係は微妙に盛り上がっていた。彼女は本当のところはどのように考えていたのだろうか。うがった見方をすれば誘いつつ拒むと云う姿勢は、長年親しんだ源氏物語の「空蝉」を思わせるところもないではなく、桃水の方に気の毒さのようなものを感じてしまう。三十を過ぎた恰幅の良い成人男子が、二十歳の娘に手玉にとられてしまう、と云うところはなかったのだろうか。
 一葉が醒めていたとは、何人かが主張しているところである。しかしわたしはこの意見をとらない。
 それよりも、わたしは雪が深々と降る日の午後、もの音も絶えて静まりかえる隠れ家のような桃水の一室で、妻に死別してののちも操を保っているかに見える誠実の人が手ずから作ってくれたお汁粉を、小さな卓袱台に向かい合わせに座って、汁粉から立ち昇る湯気に面はゆげな表情をひた隠しにして、恥かしそうに食べていた一葉の面影を懐かしく思うことの方が好きだ、あまいと云われるかもしれないが。
 強かさと純情とは、彼女の場合は矛盾しない。

一葉には『この子』、『裏紫』のような作品もある。
 前者は、結婚のしたてのころはそうでもなかったが、慣れると云うことは怖ろしいもので、新鮮さが失われると自ずと双方の地や我と云うものが出てきて災いをなす。しかし生まれてきた子ゆえに、自分のあり方も反省するし、子供を間に挟んで微笑しあう二親の表情の内にも親愛の感情を取り戻すと云うお話である。『十三夜』のお関や『われから』のお町の、かくあればこそと思わせる変奏曲のひとつの姿がある。一葉のネガティブな世界のなかで、これは底抜けに明るい。
 『裏紫』は、これは一葉的な男女の物語的世界の関係性が逆転したお話で、『われから』のお町の母親、美尾の場合に似ている。亭主としては何不足はないのだが、それゆえに物足りないと云う感じ、『われから』の場合は子供を残して妻は見栄えの良い相手の方に乗り換えるべくある日出奔してしまうし、『裏紫』では未完であるから結末に関しては何ともいえないが、凡庸な夫を評価する眼差しは月夜のように冴え冴えとしている。しかし後編が書かれていたならば、多分、『雪の日』のようになったのだろうか。『われから』のように娘が二代にわたる因縁の付けを払わせられると考えれば、割に合わないことではある。

 最後に、『ゆく雲』。物語の設定は『雪の日』に似ている。封建的で姑息因循な地方の村落社会のなかで親しみ合った男女がいつとはなしに恋に形を変えたかに見えながら、女の方は源氏の「空蝉」のように靡かない、と云うお話である。この醒めた女について一葉は、木石の様な人、と辛らつな評価をくだしている。
 女は、男の恋情を自分の不運な生い立ちに対する同情心が恋に変化したものであると冷静に見抜いている。つまり男は自分自身に対する自己憐憫を女の境遇に重ねて、自己愛を恋と勘違いしているのである。そこまでうら若き娘が冷静にも冷徹にも物事を見つめなければならなかったのかと、そちらの方にもののあわれを感じてしまう。
 もし出会い初めの頃の桃水が、一葉に小説を見てほしいと云う一葉の懇願を受け入れてこのような小説を読ませられたらどう感じただろうか。逆にいえば『闇桜』のような作品は桃水向けに、桃水のために、桃水の男心に迎合するために自ら書いたのではなかろうか。だとすれば本作には、その後の一葉と桃水との間にあった奇妙にして不可思議な関係の、「それから」が描かれていると考えてよくはないだろうか。
 半井桃水のことはよく考えてみなければならない。当時の新聞記者や物書きと云う仕事がどうみられていたかと云うのも今日では分かりにくい。萩の舎の仲間や妹の邦子が言うように、表面(おもてずら)だけからは分からない人物だったのだろうか。わたしにはそんな詮索はどうでもよいように思われる。一葉の目に桃水がどのように映じたかだけでよい。あえて言うならば、一葉との出会いは、中年の男の感性を変えたのである。

 それにしてもこのような、人格見識ともに高いけれども、『別れ道』のお京のように、年齢に似合わず老成して達観しているかにみえる娘を恋人に持ちたいと思うだろうか。一葉の日記などを読むと、これはこれで、大人たちの世界の濁りがレントゲンのような冷徹さで捉えられている。明晰であると云うのは無条件に良いことだけれども、見えすぎると云うのはある意味でしんどく、面倒でもあったことだろう・
 それではこの、知的で、冷静で、ものが見えすぎる娘は何ごとにも囚われることなく、自由に、強かに処世の方では生きたと云えるのだろうか。一葉女史は女の細腕で手強くもしたたかに生きたのだろうか。
 ところが一葉の自己批評は中々に手厳しい。『ゆく雲』の末尾の文章はこうである。

「あわれ可笑しと軒ばの櫻くる年も笑ふて、隣の寺の漢音様御手を膝に柔和の御相これも笑めるがごとく、若いさかりの熱といふものにあわれみ給えば、此処なる冷やかのお縫いも笑くぼを頬にうかべて世に立つことはならぬか、相かわらず父様のご機嫌、母の気をはかりて、我身をない物にして上杉家の安穏をはかりぬれど、ほころびが切れてはむずかし。」
 だからヒロインの名前は、お縫い、と云うのだとすれば、樋口一葉は何という小説を書いたのだろうかと、嘆息もつきたくなる。