アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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明治の青春と文豪たち、鷗外、漱石 アリアドネ・アーカイブスより

明治の青春と文豪たち、鷗外、漱石
2015-08-14 11:37:50
テーマ:文学と思想


・ 森鷗外に『空車(むなぐるま)』と云う随筆がある。空車は空車(くうしゃ)ではないと鷗外は言う。かかる古語の響きは往古の絵巻物の世界に出てくる物見車か牛車の類いかと思えばそうではなくて、大八車に似ているという。わたしには人力車の車輪か蒸気船の巨大なそれを思わせる。明治と云う新時代を表すのにテクノロジーとの結合にその象徴的な結合を見出すとすれば、蒸気船か蒸気機関車の鋼鉄の車輪が相応しいように思う。そしてその空車が行くところ「徒歩の人も避ける、騎馬の人も避ける、貴人の馬車も避ける、富豪の自動車も避ける、隊伍をなした士卒も避ける、葬送の行列も避ける、この車の軌道に横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるのを待たざるをえない。(改行)そしてこの車は一の空車の過ぎぬのである。」
 電車も自動車もそれが過ぎるのを待たざるを得ないと云うのであるから余程巨大なのだろう。しかし空車の解釈は難しい。威風堂々として辺りを払う雰囲気は明治と云う時代の威光を象徴しているようにもみえる。しかしその巨大な空車は張り子の虎であると鷗外は言うのである。

 明治と云う時代が実質を欠いたものであること、その痛切な認識が『歴史そのままと歴史離れ』を生む。鴎外が語っているのは、文学と云うものは本来個人の内面的な営為や出来事やではなく、歴史と云う対象と主体との間に結ばれた関係が文体として生まれたとき初めて文学として機能すると云うものである。文学を文学たらしめるものは作家個人の思想や観念でもないし、外部の歴史的・社会的出来事の記述でもない、と言っているのである。
 文学が、かく鷗外の云うようなものであるならば、個人的な営為としては文学が古語として如何に格調高く謡いかつ孤高に語ろうともそれが現実の間に置かれたとき無意味でもあろうしグロテスクでもあろう。文学が客観的現実との間に、それにあい相応しい文体を見出せないとき、文学者は如何にして語ることが出来ると云うのだろう。文学とは文学者にとって何を意味するだろうか。さらに言うならば、森鷗外が明治文学界のチャンピオンとして卓越的に語っているのは次のようなことである。
 文学が現実の反映であり、芸術的形象としての意味連関が文体と云う形をとるときに、仮に現実が実質を欠いたものであるとするならば、文学と云う形式はその都度に作家的個性が任意に取りうる恣意性のごときものに過ぎないのではあるまいか。文学が学であることの所以をどこに求めたらよいのであろうか。明治と云う時代と文学と云う状況に対面した鷗外にはかかる問題意識が少なくともあった。欧米の流行をいち早く取り入れて紹介するなどと云う次元のことではなかったし、当時の先進国である欧米の思潮を取り入れた高みより、後進国日本の現状を批判的に、落差的に論じると云う先進的進歩文化人の浅はかな営為の如きものでもなかったのである。
森鷗外は当時、如何にして日本語を立ち上げるかという言文一致体の試みを通して、かかる文体論上の文学の問題に逢着していた。言語を何かメッセージを伝えるための媒体として、何か無色透明な技法のように楽観的に、無邪気には考えてはいなかったのである。
 かかる現実と作家の観念なり思想を繋ぐものとしての文体と云う考え方が文学者としての鷗外に日本自然主義の陳腐と云う批判に向かわせたのは間違いない。現実が実質を欠いた張り子の虎のようなものであるとき、現実を映すことに如何なる意味があると云うのであろうか。かかる方法的な意識を欠いた日本の自然主義に如何なる妥当性を認めることが出来ると云うのだろうか。
 ここから鷗外は、現実を描くのではなく、自然を描くことの意味に赴く。自然を描くことが同時に人間の自然を描くことを通じて、中期の『阿部一族』や『興津弥五右衛門の遺書』などのような、人間的自然と歴史的現実の相克を描いた歴史ものを多く手掛けるようになる。さらに鷗外の自然尊重の立場は、『渋江抽斎』にみるような、滅びゆく江戸文化が最後にはなった余光のような文人たちの事跡の歴史的発掘を通して、人間の自然の発掘へと赴かせたのである。
 森鷗外の中期の歴史小説から後期の史伝ものへの移り行きは好事家の文学的素材の取捨選択にあるのではなく、歴史概念の発展的廃棄を通じて自然の発見にある。森鷗外の自然とは、聴くほどの耳があるものは聴けと云うほどの意味合いであり、『なかじきり』には言語に絶した孤愁感がただよう。自然の発見とは人間的自然と云う意味である。人が人間的自然に生きるとは、人間の存在が学者や政治家などの機能に分解される以前の全一性、――これはわがくに固有の現象ではあるが、封建制人格と云う漠たる人間像のなかに求められる、今日では死語と化した文人と云う人たちの存在が前提されてあった。
 鷗外森林太郎の脳裏には、和魂洋才型とでもいうべく、張子の虎型の社会への異議があったはずだ。

 それではもう一人の文豪・夏目漱石は自然と云うものをどのように考えていたのだろうか。何分漱石の場合は教養の幅や深さも広いので一概には言えないのだが、後代の人間たちが漱石の権威を借りる形で己の正統性の由縁を語るものとして利用してきた側面は否めない。一度、真っ正直な目でもって、文豪などと云う敬称をはなれてありのままに論じてみると云う姿勢が必要だろう。
 漱石の文学論に即して言えば、彼が規範と仰いだジェン・オースティン流の小説をめざし、限りなく近づいていく道程であったことは間違いないであろう。ただ、かかる観点は『明暗』などが未完に終わったなどの事情からもわたしの口からは一概には言えない。むしろ『道草』などをみると自然主義文学の規範的な達成をみたかのような傑作もあって、出し抜かれた日本自然主義の方としてはどう感じたのだろうか。流石は漱石と思ったのだろうか。
 未完に終わった『明暗』を除けば最後の完成した作品となった『道草』を読む場合に注意するべき点は、道草、とは、何事かが終わった段階の「その後」を描いた小説であると云う点である。その何かは決して語られることはない。中期の代表作『それから』が象徴的な表題を掲げているように、夏目漱石の小説スタイルは何か重大な出来事の「その後」を描くと云うスタイルで一致している。こう云う点は在来の漱石研究家の間で論議されたことはあるのだろうか。

 中期の漱石の文学のスタートを告げる『三四郎』と云う小説がある。田舎から出てきた純朴な少年が都会の風俗と出会うことで一応は成長していくと云うお話であると解する。ここに美貌の謎の女性が登場し、誘うようでもなく拒否するでもなく媚態とも思われる曖昧な姿勢のまま散々に三四郎を翻弄する。三四郎は彼女の生き方を反省し顧みて、とかく女と云うものは分からないものだと思う。女一般が分からないのではなく、知性と云う武器を身に着けた都会の今様の女と云うものが分からない、と云う意味である。
 こうした何の変哲もない女性観が漱石自身のものであったかどうかは分からないが、少し前の『草枕』などを読んでみると案外に文豪の女性観が幼稚であったことが分かる。『草枕』には『三四郎』の里見美禰子の前身である那美さんと云う謎のヒロインが登場する。出戻りの夫人である那美さんは過去に謎を秘めているらしく、様々に噂され見聞された振る舞いの奇矯さもその過去に遠因があつたのかもしれないが、語り手の視力はそこまでは届かない。別れの停車場の場面で勝気なヒロインの表情をふと過った「憐れ」の感情に、これは絵になると語り手はいたく感激してみせるのだが、那美さんの「過去」が「憐れ」の感情などでかたつくものではなかったことは後日漱石の眼に明らかになるであろう。分かりやすく言えば那美さんの過去とは、西南戦争前後の日本がいまだ統一的な富国強兵や忠心愛国のイデオロギーに染め上げられる以前の、自由の気風を色濃く残していた地方都市熊本の疾風怒濤の時代の「それから」の余燼を伝える人材に他ならなかったからである。徳富蘇峰と蘆花の兄弟は、こうした雰囲気から出てくるのである。興味深いのは、夏目漱石の如く頭脳明晰にして学識深甚なる明治後期教養人が、既に昨日のことのように近過去の出来事を、既に伝説の如く、その痕跡ですら読めなくなっていると云う事実である。
 流石に『三四郎』の方はそこまで軽率な人生観なり世界観が披露されているわけではない。物語の最後に、三四郎は里見美禰子の結婚式に招待されて、彼女が単なる明治のモダンガールのいち象徴であったわけではないことを予感として持つ。その予感は、美禰子だけではなく三四郎を取り巻く都会人の全ての面貌に及んで、まるで怪談物のように、いままでは自明と思われていた三四郎の世界が一挙に謎めいた存在と化す、そうしたミステリーのような終わり方をしているのがこの小説の特徴であると云えば特徴である。

 明治四十年代の前後に地方出身の三四郎が見た都会の風景とは、何事かのドラマがあったのちの「それから」なのであった。『三四郎』には既に生じていて過去に成りつつある世代の意味は語られていない。何か大事なことが語られていない、それが『三四郎』と云う小説なのである。
 なぜ広田長や野々宮宗八と云う重要な脇役的人物が謎めいた独身主義者であるのか。佐々木与次郎と云う狂言回しの人物が単なる能天気の青年であったばかりではないことも了解されよう。彼は出世の見込みもない広田長を、先生先生と奉って種々に奔走する、その謎や、かれが東大でも三四郎のような本科でないことなども漱石はさりげなく書き落としてはいない。そして有名なヒロイン美禰子さんにしても、田舎青年の目に映じた美女の単なる都市風俗模様ではなく、そこには失われた青春のこころの疼きのようなものをそこはかとなく描いていて、夏目漱石生涯の大傑作であることを証立てているのである。

 鷗外も漱石も、さすがと云うか、明治の擬制としての国家観や忠君愛国のイデオロギーに乗せられるにしては冷静でもあれば明敏で、十分に強かであった。しかし反面、鷗外における自然への回帰にしても、漱石における人間の尊厳をめぐる闘いにしても、容易に、明治という国が隠し持った秘密の奇態な在りかを告知してはくれない。つまり敵側の方が国民作家よりも一枚上手なのである。
 とりわけ漱石の場合悲劇的だったのは、『それから』以降の歩みの中で『こころ』の世界に結実する、強力な歴史的なものの呪縛と云う事件が発生する。事件とはかの乃木希典の殉死事件のことである。
 乃木希典の事件が意味するものは、主君への忠誠として可視化された世界の出来事が、現人神としての天皇と云う半ば不可視化された対象への殉死として、普遍化されたことだろう。主君への忠誠や殉死と云う出来事は特別に恩恵を受けたものに限られた特別の行為であったものが、忠誠の対象が可視性を剥奪化される過程で、つまり幻想域に形而上的な存在として祀り上げられることによって、等しく国民の経験となる。悪平等の普遍的な原理となる。漱石の『こころ』はかかる日本国民の歴史的死生観の奇怪至極にして奇態な変革を、奇形な日本人の死生観の変質変容をを描いて、明治末期から大正へと、乃木希典事件が伝える不気味な残響音を所を同じくして描いた問題作なのである。

 『こころ』を一読した感じる不可解さは、命は軽いものであるのか、重いものであるのか分からない、曖昧な二重のアンビヴァレンスを伝えていることだろう。漱石は死を美化しているのかそうでないのか。
 これ以降の日本人が如何にして心理的に心の機微を通じて根幹を掴まれて戦争に駆り出されていくか、しかもその結果は美辞麗句の謳い文句とは余りにもかけ離れたグロテスクの場であったことを、少なくとも漱石は『こころ』の友人の自決の場面の凄惨さをとおして描いていたと思うのである。
 『こころ』の読後感を語る場合に、kの自決する場面の凄惨さにページを割いた漱石の思想に言及する度合いが余りにも少ないように思う。同様の事はゲーテの『若きヴェルテルの悩み』の場合にも言えることである。

 樋口一葉の幸運は、かかる明治と云う時代の猥雑さや下品さを、後代のものほどにはどっぷりとは経験せずに済んだことだろう。鷗外、漱石の隣に一葉を置いてみるときに彼女の清新さは際立つ。それは好むと好まざるとに係らず大成した大人の濁った体臭と、一葉の乙女のような清冽さとの対照、と云う意味を超えた、三人の時代との係り方の中にあるように思う。