アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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十三夜 一葉樋口夏子ことひなっちゃんを偲んで 『おおつごもり』、『にごりえ』、『十三夜』 アリアドネ・アーカイブスより

 
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 美しい月夜は・・・・・。――今日は十三夜なのだ、ということに思い当たる。月は今宵まさに天空にある。一昨日の二十三日が一葉の命日だったので、引き続いて連想はいったん途切れて再び息つくため息のように、また流れに浮かぶ泡沫のように自由に、思いつくままに想像力の尾鰭に頼りなくぶら下がりつつも、記憶の光芒の世界に残照を鈍く照らされながらも、なおけぶりつつも彷徨いながら自在にそこはかとなく流れていく。
 樋口一葉の『十三夜』と『おおつごもり』は姉妹のように似ている。一方は、浩々と月が照る夜更けの、八方ふさがりの話。もう一方は、年の瀬のどん詰まりの、新年をどうにか越すことが出来た、何とか格好はつけたのだが、歳は明けても彼女たち家族の今後に光は射さないだろうと云うお話、と云えばいいだろうか。
 どちらが暗いかと云えば、『おおつごもり』の方だろう。小説の終わりの方では、まるでデウス・エクス・マキーナ――機械仕掛けの神のように、上手いことに金満家の家の道楽息子が現れて、彼の気まぐれで一難を逃れる、というお話。こういう偶然は二度とは起きないだろうし、娘が経験した境遇は彼女の生活や環境の諸条件が変わらない限り今後も二度三度と続くだろうから、こんな風にして貧しい家の娘は遊女とか酌婦とか、苦海に身を沈めていったのだろうか。一葉は可憐な王朝風の手弱女のようにみせているが、彼女の見えすぎる透徹したまなざしは、人の冷酷さとともに人間の善意や背後に潜んだ狡さについても見逃してはいない。
 それにしても遊女や酌婦のすべてが好んで職を選んだわけでもなかろうから、自分のためと云うよりも、家族のため、知人や恩ある人のために、こうなり、ああなり、零落の道を辿ったと考えれば憐れである。それでいて彼女たちは過度の要求をすることもなかったし、報いられることもなく無縁仏のように隣接する寺院の墓地に葬られ、忘れ去られたのである。一転して怨念というよりも無常の情念が鬼火のように昏く明滅するくだりについては、一葉文学において解釈が最も難解な『にごりえ』ににおいて、一葉が長年飼いならしてきた狂気の存在にかかわる描写ともに仔細は詳しい。
 『にごりえ』は二十歳に数年を加えただけだけれども、思いとしては既に十分に生きたと思えた一葉の晩年の透徹した感慨が生んだ瞬間の破調なのである。狂気との共存は一葉を蝕んだが、他方において狂気の存在は人生における観照的態度における卓越を生んだ。狂気と闘うのでもなく、交わるのでもなく、狂気の真下を潜り抜いけることで一瞬、狂気と狂気とがすれ違う。ちょうど深夜にすれ違うローカルのプラットフォームで対面した旅客列車同士の出会いのように。そのとき闇夜に穿たれた車窓を隔てて二つの視線が重たく交わり、宿命の者同士の馴れ合いのように、こちらのほうに眼差しが重たく陥ちてくる。
 樋口一葉の晩年、丸山福山町に住んだ一葉は、遊郭と云っても二流三流の、それこそ流れ着く果ての源覚寺門前の、居酒屋か小料理店に偽装したその手の女たちと成り行き上、友情半分同情半分の行きずりの親交を結ぶことになった。
 樋口一葉の凄いところは、儒学的な道徳と王朝的文芸の素養と云う和漢にわたる古典的な教養の中で端正ともいえる硬質のたしなみを身に着け、骨髄まで染み込ませられた旧式の美意識と教育の薫陶を受けながら、二十四年というたいして長くもない人生経験を積む中で古い道徳の欺瞞を見抜き、時代に制約された価値観の歴史的限界をかなりの程度の自覚をもって乗り越えて行ったことであろう。
 ここまで自分の生きている時代の価値観とともに生きながら、人と人との昔風の柵にどっぷりと首まで漬かりるような窮屈な生き方を内外から強いられながら、同時に医者のような醒めた目で知的にものごとの道理を理解し、自分を取り囲む周囲の出来事を観照的な醒めた態度で見抜く、と云うことは稀有のことであると言ってよい。時には彼女の申請態度の透徹は『ゆく雲』や『われから』に見るような、とても二十歳過ぎの乙女とは思えない、不気味で妖艶な冷笑で世の中に報いることすらあった。すでに彼女の社会観照の確かさは、明治期から大正年間に至る人道主義や女性の権利意識に芽生えた社会運動の水準を、あるいは遥かに超え出ているのである。
 樋口一葉は『たけくらべ』だけの作家ではないのである。
 そうした彼女の哲人のような人生観照の成果として、『十三夜』と『おおつごもり』はある。
 
 『十三夜』は、表題そのものがイメージさせるように澄み切った、白鳥の歌のように美しい作品である。
 器量好みだけで旦那に貰われていった娘が、やがて子を産み、旦那に飽きられ、いたたまれずに十三夜の夜、老夫婦が一人息子と慎ましい生活を送る実家に帰る。いざ対面すると、言い出しかねる自らの逡巡を励ますように一切を思い切って告白し、いびり出された家には帰れない、ここにに置いてくれと懇願するのだが、ぎ世の仕来りや苦労は我慢が肝心と逆に諭されてしまう。さらに貧しいながらも細々とではあれ暮らしが成り立つのは誰のおかげであるか、苦学して専門学校にかよっえいる弟を見捨てるのか、さらに婚家に一人で置いてきた乳飲み子のことを指摘されると、黙って置き去りにしてきたわが子の寝顔が瞼にちらついて泣き崩れるほかはないのである。
 あらゆる前途に希望も見いだせずにとぼとぼと帰る道筋、たまたま路傍で拾った車引きの挙動が途中からおかしいので、――やがてそれが心の中で嗚咽を堪えた初恋の人のなれの果ての恥ずかしい零落した姿の偶然とも運命とも云える邂逅だとわかる。自分を取り巻く窮状や条件が変わるわけはないのだが、零落した昔の恋人を知らず励ますうちに、つかの間、自分自身の不幸を忘れてしまう、あるいは人を励ますという行為の中で自分自身が癒されてしまう、というお話である。古来、涙には不思議な効果がある。
 読み終わってきちんと座りなおして考えるに、女と人間は似ている、と思う。封建時代の女は、世間にも身内にも味方を見出しえずに四面楚歌の状態でこの世に生まれてくる、身体という道具だけを持って。同じく人間もまた実存としては、言葉という道具だけをもってこの世に生まれ落ちてくる。女とは何かと考えるときも、人間とは何かと考えるときも共通した哀れさがある。
 
 さて、このお話の後日談を想像すると、子供の愛ゆえに日々の苦労を忍んで若妻は生きていったと思われる。あるいは最悪の場合は、親権を取られて、離縁されるという事態もあり得ることだろう。母親は子供の将来のためと云われればどうしようもないのである。女であることも母親であることも同時に奪われるのである。そうした事例も一葉はいくつか明治の世に見てきた。
 いずれにせよ一葉の小説には昔風の鷹揚で結構な物語の閉じ方が方便としてはあるにせよ、この夜、一人の女の魂が死んだことは間違いのないことなのである。女は世間と家庭の間で、冷酷な夫と身内の絡みつくような人情の間で死ぬ。不幸な女と車引きの二人が広い東京の町はずれで偶然に出会い、そして別れがあった。互いの励ましあいのドラマが街角の辻で一言二言あって、お互いが別方向に立ち去ったあと、人気の去った江戸の面影を残した低き夜更けの街並みの連なりを、十三夜の銀色の月が浩々と照らしている。