アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『太陽の季節』小説と映画制作の間・(中)アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ロシアンルーレットと云うのがありますが、喩えとしては適当ではないのかもしれませんが、命を懸けた緊迫感と云う点では『太陽の季節』のなかでクライマックスを築く、津川と英子の間に演じられた愛の金銭売買ゲームを擬えて語ることが出来ます。
 この場面の前段としては、本編の白眉とも云える、葉山の沖での水の洗礼、海の洗礼、とでも言わるべき場面があります。誰もいない沖合にヨットを進めて、死と生とが背中合わせになった海の深層の経験の中で、英子はなにものかの神秘の到来を予感します。その何ものかの神秘の到来が、二人の恋人を、津川と英子を永遠に隔てるものになるのです。
 そのなにものかの神秘を、愛 と名付けることは余りにも容易でしょう。しかし歌に歌われた月並みな愛と呼ばれたものも、当事者の意識として内側から眺めた時は、ある種の固有さの到来であると自覚されます。ですから、愛は好いた惚れたではなく、自分が隔絶された自分自身であることの自己意識の確認なのです。その何ものかの神秘をめぐって英子は、その何ものかの固有さが果たして金銭によって換金可能か、というゲームの挑戦を受けざるを得ないのです。
 こうして津川の兄と言う資格で道久が登場してきます。津川が英子の愛を五千円で売買すると、その都合ごとに彼女は道久から五千円で買い戻します。彼女は潤沢な資金に恵まれたブルジョワの娘ですから津川の挑戦に無限に応じるかに見えます。しかし循環する金銭のロシアンルーレット様が演じられるにつれて、凄みさへ感じさせます。金銭の積み上がりが嵩を持ち始めたとき、二人の真剣さの間にあって道久は怖くなって、ゲーム参画からの辞退を申し出ます。この、太陽族の生態を、「外部から」見ていただけの男が、誰であるかを映画を造る側も観ている側も暗黙の前提として知っています。映画はこのような楽しみ方が出来るのです。
 映画『太陽の季節』は、作者自身の自画像を、作者自身も気づかない形で、巧妙に、映画の中に作中人物として取り込んだ、稀有と云える巧みな批評的な作品になっているのです。
 
 昨今、豊洲移転の問題に絡んで、武士道とかもののふの倫理とか言っていた人が、追及する側の現行都知事を法的処置に訴えると云う笑える話がありました、口では果し合いに出かける、仇討ちだ!と云いながら、訴える先が「お上」であったと云うことは笑えない喜劇、笑劇として今後も終始していくかにみえます。大きな言説を述べた方がお笑いバラエティ番組風の結末を演じる、哀しいことですが、少なくとも芸人は役割を理知的な醒めた知性によって演じてはおりました。笑止と言うべきか。
 誰しも、追い詰められれば嘘もつきたくなるし、他人のせいにしたくなる、これは当たり前の現象でしょう。そのことで人は石原慎太郎氏を非難してはならないのです。そういう自分だって、その場の立場に置かれたら同じような行動をしないとは言い切れないからです。
 大事なことは、彼の政治家としての、あるいは人間としての駄目さ加減が、作家としての資質のなかの傾向とどのように連動していたかを吟味することなのです。たまたま若書きの、素材の卓越が際立っただけの作品が過去に売れたと云うことだけをもって、きちんとした日本語の問題として一度として正当に評価されることもなく、斯界の重鎮然とした扱いを受けたこと、その資質がそのまま政治の世界に無自覚なまま持ち出され、漂い流れ出てしまったのがこの結果、その結果が数十年後どのような結果や結構に結実を生んだのかと云うこと、人の人生を評価する場合、そのセクションごと、カテゴリーごとのきちんとした評価をしてこない国民性がここに来て本園と建前の間で齟齬を来したと云うこと、であると思います。この国には、プロフェッションとして項目ごとに評価すると云う習慣に欠けているところがあるのです。何となく出来てしまうのが職業の一つとして政治家が存在するわけではありません。
 次回は、慎太郎氏の、作家としての資質のその「質」について論じてみたいと思います。