アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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"きらいな言葉、いやな言葉” アリアドネ・アーカイブスより

"きらいな言葉、いやな言葉”
2018-04-23 11:45:53
テーマ:文学と思想

 
 むかし、とあるビールのコマーシャルに、”男は黙って飲む、〇〇ビール”と云うのがありました。気になる、嫌になると云うほどの言葉ではありませんが、大事なこと、肝心なことは、黙っているのではなく、言葉にして欲しいと思いました。
 この国では、葉隠れの昔から、大事なことは、言葉に言い表せない、言葉にした瞬間に偽りに変ずる、と云う信奉、信仰があるようなのです。わたくしたちの言葉の慣例にもあるように、言葉だけの問題とか、口先だけのひとなどと云う、言語蔑視も行きつくところまで行くと、少しだけ過激な評言になります。 
 ともあれ、男が黙っていたおかげで、いまのような日本になりました。 

  次に、”子供は親の背中を見て育つ”と云うのがあります。なぜ親は背中ではなく、正面から向き合って子育てをしてはいけないのでしょうか。親も子も一個の人格であるし、危ない時は身をもって親は子供に介入するべきだし、もし親が子供たちをめぐる様々な大人たちの中で何が違うかと云えば、親とは、唯一愚かであることが是認せられる存在であるからです(是認されはするけれども、ある種のペナルティが課せられます)。親馬鹿と云う言葉もありますが、親の身びいきと云う利己的な行為の背景には、親が世界のなかでたった一人の存在としてたとえ全世界を敵に廻しても見方であり続ける存在であること、清濁をも合わせて飲み込んで所詮は我が子なりけりと、場合によっては愚かさに殉じる、と云うこともあり得る、特殊な世界の住人である、と云う認識が必要なのではないでしょうか。他方、母性愛とか父性愛とかいいますが、親と子の関係は本能や自然発生性に尽きるものでもありません。子供たちを解き囲む環境、他の大人たちの像にはない、子供にとっての独自の存在の仕方で親はあること、世界のなかで、他に代えがたい唯一の存在であると云う在り方が、愚かさに殉じるという生き方の根底にはあるのです。愚かさに殉じるとは、それが個人にとって選択的な行為となって現れる時にのみ実存の問題となり、巷間で論ずるに値する等価物となり得るのです。日本人であるのなら、歌舞伎の世界でもお馴染みでもありますね!
 二番目もまた、背景には、――大事なことは言葉では代用できない、言い尽くせないと云う固有の言語観があるようですね。
 三番目は、”忖度”と言う言葉なのですが、これについては前にも語りましたので、割愛させていただきます。


 (付記)
 わが国には、言霊観と云う、万葉以来の、固有の古き言葉に対する信仰がある一方で、長い伝習や慣習として、習慣化され実体化されたたものとしての言葉に対する蔑視観、字面への軽蔑の伝統があります。この矛盾した、二つの交錯した両者の関係について、何時かは考えてみたいと思います。

 たしかに言葉を超えた何ものかがある、と云う考え方は常識的な範疇においても理解されやすいし、他方に於いては、言葉とは表現された限りに於いての言語、言葉が言語となるためには固有の土俵のようなものがあって、土俵とかりに名付けましたが、その言葉が生い育つ土壌、と云う場についての問いもまた興味深いものがあります。
 この両者の関係、興味深いとおもいませんか。――言葉と言語の関係。