アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「ぺリクリーズ」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
  ヒロインの一人の姫君の名前がマリーン、雄大な海の物語である。華麗な中世のページェントを含む華麗な祝祭劇であるから、シェイクスピアの時代とは異なった様々な演出を楽しめる演目である。しかしエリザベス朝演劇の簡素さは、語り手詩人ガワーの「あとは観る方のご想像のままに!」と云う幕間の口上もそれなりに気品があったと思います。
 
 物語はシンべりンと云う清く正しい生き方をした一人の王の物語を主軸に、失われた王妃とその娘の三人が再会するまでのコメディーである。我が国ではコメディーと云う語感が難しい。これを喜劇としたのではシェイクスピアに携る世界では通じるとしても一般的な語感には程遠い。悲喜劇、あるいは悲劇を乗り越えた人間賛歌の物語であるから近年はこれをロマンス劇、と云うように言い慣わしているようである。私も当面それに従っておく。
 
 まあ、それにしてもシェイクスピアの人間造形は面白い。
 まずヒロインの二人、セ―ザ妃とマリーナ姫、まずはセ―ザ妃から。清く正しい男ぺりクレーズに愛を打ち明けることの率直なこと。裏表のない偽りを知らぬ深窓の姫君は、これを由緒正しき高貴さとしか言いようがない。その姫君を運命は過酷な人生流転へと、つまり海の物語へと導くのである。死んだと思われて棺の箱に入れられて海洋に投じられ波間に漂い再びこの世に辿りつくまでの儚さ、頼りなさ、酸いも甘いも噛み分けた円熟期のシェイクスピアならでは、と云う気がする。
 
 一方その娘であるマリーナの清楚さ、至純さはいかばかりであろうか。この海で生まれた娘はその父親ぺリクリーズによってその出生の過酷さを嘆かせたものだが、その後に彼女が経験する有為転変の物語もまた過酷なものであった。育ての親に毒殺されかかり、それを救ったのが金目当ての海賊と女郎屋のお先棒担ぎ、と云う訳でロクなことはないのである。しかし彼女は、これもまた運命に導かれるように、海で生まれた彼女は再び船上で父親との再会を果たすのである。この場面はこの劇中、最も厳かな場面であると云ってよい。
 
 そのマリーナの未来の夫になるライシカマスと云うのも変わっている。国の太守でありながら女郎屋に入り浸りのような遊び人なのだが、マリーナを見ると途端に心変わりしてしまうのである。つまり今までもそうであったように、清く正しい男性像を装うのである。近代人なら欺瞞と云うところだが、エリザベス朝の寛大な観客は見て見ぬふりをする度量を持っていたのだろう。
 
 しかし、海の娘マリーナと云うのは変わっている。彼女が女郎でありながら清く正しい生活を貫徹できるのは、来る客来る客に説教を垂れて、もう二度と女郎屋には出向くまいと思わせるほどの芸達者のなのである。あるいはその女性を見るだけで男性の性欲が減退してしまう不思議な性格の持ち主なのだろうか。「ぺリクリーズ」は、清く正しく美しい人間が何故不幸な運命を流離わなければならないのかと云う、シェイクスピア沈黙の声を声高に謳いあげた傑作であると思う。
 
 清く正しき男ぺリクリーズの軌跡はなにゆえ生起するのか。人知を尽くし、運命をいたずらに嘆慨し乾坤一擲の賭けにでるよりも、人を信じ運命を信じる、一歩隔てられた受容的な生き方が、人を信じ、神を信じることに於いて、時間はかからろうとも希望と夢を信じるウィリアム・シェイクスピアの人生観と世界観とを具現した人物こそ、ぺリクリーズなのである。