アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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イギリス社会における宗教的な基層について――グレアム・グリーンの『情事の終わり』をめぐって アリアドネ・アーカイブスより

イギリス社会における宗教的な基層について――グレアム・グリーンの『情事の終わり』をめぐって

2012-02-29 08:20:07

テーマ:歴史と文学

  以下の文章はグレアム・グリーン『情事の終わり』の中の、サラァが亡くなったあと、臨終の秘蹟をめぐるサラァの夫ヘンリとベンドリックスの会話です。

 

”ベンドリックス、ぼくはどうしていいかわからないんだ。実に厄介なことが持ち上がっているんだよ。彼女が詭言をいうようになってから(だからもちろん、彼女には責任がなかったわけだが)看護婦がぼくに、病人はしきりに、神父を呼んでくれと言っていると言う。少なくとも、Father,Father,と呼び続けているんだが、それが本当の父親のことであるはずがないんだ。サラァは父親を全然知らないんだからね。もちろん看護婦はぼくらがカトリックではないことは知っていた。よくもののわかる女でね。どうにかサラァを落ちつかせた。けれどもぼくは困ってるんだよ、ベンドリックス”(新潮文庫P209-210 )

 

 『情事の終わり』は都合、原作を二度読みなおしましたが、翻訳者の田中西二郎氏が「神父」と断っているように、ここではカソリックの司教もしくは司祭を意味します。普通に読めば、ここで彼女が罪の告解と臨終の秘蹟を求めていることは明らかです。

 夫と元恋人が下した反応は別様で、夫の困惑は妻の願いを受け入れるべきかどうか、ということと、カソリックへの改宗と考えて良いのかと云う確証の不確定性、です。

 一方のベンドリックスの反応は、このあと見るように、あからさまな目に見えるものとしてのカソリック教会に対する反感です。神は沈黙しておきながら、今更なんだ、と云う訳ですね。

 作者グリーンの観点は、そうしたベンドリックスの嫉妬深さや罪深さも含めて、神の恩寵は無意識の領域で働いている、と云うものでした。訳者の田中氏の見解もそうですし、カソリック作家グレアム・グリーンと呼ばれる場合の、自覚化された姿勢もそうだと思います。

 

 しかし映画と云うもう一つのテキストが示すように、サラァの両親の不和の根本原因に宗教の違いがあり、妻の口からプロテスタントへの改宗を強要されたという過去の経緯が語られ、さらにトーマス・マンのような二つの市民社会的な気質が――つまりマンにおいては『トニオ・グレーゲル』や『ヴェニスに死す』などにみるように、北方的なものと南方的なもの、つまり実務的な市民社会的気質と開放的な南欧的な開放性の対立――を読み込んでくると事情が変わって来ます。サラァの今わの際の言葉――”FATHER”が、単純には「神父さま」のこととは思えないようになります。夫のヘンリの困惑やベンドリックスの疑惑が、さらには原作者グリーンの邪気のない疑問の無さが、何とも物足りなく牧歌的であるようにに思えてくるのです。西欧社会の複雑な社会的基層を、そう単純にカソリックと云うことで割り切って良いものでしょうか。

 

 文学作品とは、作者の手を離れた後は社会の中における客観性を帯びたテキストですから、作者が必ずしも自分の作品についての最良の批評家ではないことはよく知られていることです。

 

 作者自身が自作の最良の理解者ではない。描かれた作品が作者の意図とは異なってこそ解釈の多様性は生まれ、それが自由な言説の交易の場としての文学である、と考えるのです。

 

 ご存知のように近世のイギリスにおいてはヘンリー8世の時代に極めて非宗教的な理由でローマカソリックからの分離独立が果たされます。それをイギリス国教会と云うらしいのですが、少なくともエリザベス1世の時代までには大陸のプロテスタンティズムの影響を受けながら、他方では清教徒革命やメイフラワー号の事件に見るように、プロテスタントの過激な傾向を排除しながら、徐々に、時間をかけて、カソリック典礼などの儀式を残しながらも、プロテスタント化の過程を辿って行った、と思われます。つまり、国教と云う、世俗化されたイギリス近代社会に最も適合した宗教の様式を選んで行ったと思われるわけです。

 ですからイギリス社会においてカソリックであるとは、社会に置いてマジョリティの境界に身を置くと云うことであり、成人後カソリックに改宗するとは単に二つあるものの一方を選ぶ、というようなことではなく、イギリス社会の基層的な宗教事情を踏まえて自覚的にカソリックたることを選びとる、と云うことを意味します。

 つまり事後の選択されたカソリックたることと同等に、自明化されている基層的な考え方をも同等の重みをもって勘案すべきなのです。

 

 そこで二回目に読んだときは次のようなことを感想として持ちました。

 サラァの母親の溺愛と夫への反感とプロテスタント的なものへの意趣返しの結果として、社会における家族的なものを何一つ教えられなかった彼女は、最後に父親的なものの存在を手掛かりに、宗教がどうであるという以前の、イギリス人として死にたかったのではないのか、と考えたのです。そして、この場合大事なのは、イギリス人であることの誇りは、同時にキリスト教徒であると云うことと同じ意味だったのです。

 

 もう一つは、神の前の実存、と云うことと関わりがあります。 

 サラァが世俗的社会に置いて自らを罪人として理解する、と云うことは、その罪の大きさに比例して、すなわち近代社会の極外へ、つまり孤独な単独者の実存として荒野の中にひとり立つ、と云う意味に変わるのです。

 神がいるかどうかが問題ではないのです。『情事の終わり』と云う小説においては、神が存在することは自明なこととして語られております。自らの実存に至る過程で、心身脱落、と云うか、属性的なものが全て脱落して、社会からも愛からも、神のみがひとり残る、そうした極限的な在り方がサラァの場合、出現していたと思われるのです。

 

 実存は、恋人との愛すらも隔ててしまうほどの根源的な孤独さでした。このひとり神のみが目覚めた孤独な時間に於いては、既成的なあらゆる宗教組織が介在する予知を認められないのです。つまり通常に意味で云う、神からも人間の愛からも見捨てられた状態にあった、と云えるのです。宗教で云う、無現放下とはこの状態を云うのではないかと思えるのです。

 

 ベンドリックスやグレアム・グリーンのとって「情事の終わり」であったものが、サラァにとっては「愛の終わり」でもあったのです。原作者の意図せざる作品の読みを可能にすると云う意味では、『愛の終わり』と日本語訳しても良かったのです。田中さんの最初の訳の方が正しかった、と思うのです。

 

 さて、どちらの読みが作品により奥行を与え、より魅力的な読書ができるかということは厳密な文学研究とはまた異なった、恣意的な楽しみの世界に属することです。