アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『オセロ- 』と『ハムレット』アリアドネ・アーカイブスより

『オセロ- 』と『ハムレット
2013-12-01 09:20:22
テーマ:文学と思想


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・ 今回利用したのは、小田島雄志訳の白水社版と、1982年のフランクリン・メルトン演出、ウィリアム・マーシャル主演によるシェイクスピア全集の画像である。
 さて、『オセロー』を論じるというと云うことになると四代悲劇の中で最も明確な輪郭を持ち、かつオペラに相応しいような劇的な構成なっているという意味で、古典悲劇の典型であるようにもみえる。完成度が高いと云う事はそれだけに書きにくく、今回は、大シェイクスピアの名声に気押されて考察も難渋した。それでも今回観直して強く感じたのは、『オセロー』はとりわけ『ハムレット』の。そして『ヴェニスの商人』の続編と云うか、それを踏まえた作品である、と云うことだった。

1.聖性と俗性
 『オセロー』はシェイクスピアの悲劇の中でも結末の無残さにおいて際立っている。盲目的な愛が主題となっているように見えるが、オセロ―は誤解や激情に駆られて、つまり我を失ってデズデモーナを絞殺したとは必ずしも言えない。命乞いをする高貴な貴婦人を手に掛けようとするのだが、一方では女性なるものの聖性を血で汚すことを極端に恐れ、寝入るように死んでいく白無垢の美女の死装束に耽美的な美学的且つ倒錯的な感興を覚え、あえて絞殺するという手段に訴えるオセロ―の懐疑と心の逡巡は、半ば理性的であるとも冷静であるともいえる。自らの本能と感性はデズデモーナを殺すことに対して根源的抑制が働いているにも関わらず、彼は貞操と云う観念に訴えて彼女を殺さなければならないと、妄想を逞しくする。オセロ―は一般に激情に駆られた男の悲劇だと観られているが、むしろラスコリーニコフとまではいかないにしても、観念と理念の為に悲劇は起こるのである。この点は姉妹編である四代悲劇のもう一つの高峰『ハムレット』が、内省的な男を巡る心理的な悲劇と思われているが、実際は既成化された道徳概念を巡る、あれかこれか、であり、吉田健一がかって指摘したように、「生きるべきか死すべきか」などと云う誤訳に代表されるような、スマートな話ではなかったことを思い出させる。ハムレットの悲劇は、毎夜出没するという父親である王の亡霊が遺恨を果たせと脅迫する願いが正当であるかどうかに向けられている。王弟クローディアスと母妃ガートルードによって仕組まれた陰謀が本当にあったことかどうなのかに向けられている。にもかかわらずハムレットの疑心暗鬼の冷徹な追及の過程で、オフィーリアを始めとする幾人もの罪なき人々が下手人ハムレットによって死に追い込まれていく。『ハムレット』の恐ろしさは、エルシノア城と云う閉ざされた密室空間の中で演じられた惨劇について、この理念型テロリストの口から悔悛の言葉がついに語られなかったことによる。

 さて、本題に入ろう。
 しからば、オセロ―によって死に値するとされたデズデモーナとはどういう女性だったのだろうか。ヴェネツィア共和国元老院に属する名家の深窓の姫君である。本来は傭兵隊長のような位置から成り上がったオセロ―などの手が届かない相手である。しかし時代の変化は対トルコとの戦略を喫緊の課題とした。デズデモーナの父ブラバンショーも政治的社交としてオセロ―を自宅のサロンに呼んで歓待すると云う事もありえたのである。それがオセロ―とデズデモーナとの出会いになった。デズデモーナにとっても共和国の華奢な貴公子たちよりは、波乱万丈ともいえる、まるでホーマーの地中海的世界をそのまま生きてきたようなオセロ―の生涯の出来事の話を、台所とサロンの配膳の折の出入りに聞くにつれて、興味深い話と云うよりも、心底、その話に惹き込まれてしまうのであった。英雄の物語と云うより、彼の境遇に同情したのである。一目ぼれとか運命的な出会いと云うようなロマンティックな感情ではなく、自らには他人事の、社会境遇的には決して交わりあう事のない無縁な男の生涯を、奇妙で不思議なことにはわがごとのように、心の痛みとして受け取ったのである。つまりキリスト教でいうパッション、受難として受け取ったのである。好きだとか嫌いだとか、あるいは惚れた腫れたと云う世俗愛の形ではなく、愛をその最高形態である受難の形式として受けとるとは、その女性が霊感に満たされた極めて想像力の豊かな女性であることを語っている。

 シェイクスピアが巧みなのは、かかる聖性の顕現ともいえるデズデモーナの物語を語るのに、彼女の周りに彼女の運命の糸とは一切関わらない、これ以上ないと思われるほどの俗人たちを配したきとである。物語は、たしかにイアゴーと云う性悪の、悪魔の手先のような男の姦計に嵌められていく物語なのであるが、勧善懲悪劇流に最後にイアゴーが罰せられなかったにしても、つまり悪徳が栄えるピカレスクロマンの筋立てだったにししても、イアゴーは何を理解したといえるのだろうか。美徳に対して十全の理解と感受性を持ち、それの反対テーゼを持ち出してこそ悪魔の勝利とは言えるのだが、外面的には如何なる悲劇がドラマとして演じられようとも、デズデモーナの愛の物語とイアゴーを始めとする俗人たちの動静はまるで無関係なのである。つまり『ハムレット』の敵役・クローディアス王に見られるような悪の才能、悪の感受性、悪の想像力が欠けているのである。

 デズデモーナと云う女性は男社会の中では分をわきまえた控えめで思慮深い乙女として描かれている、。しかしその世間知らずの深窓の姫君が愛においては雄弁であるだけでなく自ら果敢な行動を起こし駆け落ちまがいのことまでする。かつ、父親から世間的な常識などと云う盾と剣をもって追究されると悪びれることなく、自分流に解釈した愛とその進化形態の極限値である貞淑の概念をもって父親に反論し、いまの自分は父親を捨て夫の側に就くのが正当なあり方なのだと、これはまた堂々の聖婚の概念を開陳する。つまり彼女は言葉を持つ女なのである。言葉が同時に概念であるような女なのである。どこかの国のホームドラマのように、やはり家族だね!と云うような人種ではないのである。
 一方、オセロ―とは、貞操などと云う紋切型の、干からびた死物化した観念に殉じて死んでいく男の物語である。言葉を知った女デズデモーナは、オセロ―が本気で自分を殺そうとしていることを知ったとき、せめて言葉のために猶予を願う。片方は既成化された観念ゆえに、貞操と云う言葉の定義のためにデズデモーナは死ななければならないという。他方、デズデモーナは生きた言葉のために、あと30分の猶予を乞いながら息絶えるのである。
 言語を巡る、壮絶な言語論的ドラマがあった、とみるべきである。

2. 至純なるものを巡って
 ところで、女性としてあることが同時に聖性であるようなタイプとしては、その極限的な表現としてはマリア信仰とマグダラのマリアの愛を知っているが、そこまでいかなくても私たちは、罪なくして死に逝く女のテーマが『ハムレット』において、舞台裏から第二オーケストラの弱音のように、あるいは木管のトレモノのように余韻嫋嫋と響いていたのを知っている。しかも至純なるものを哀悼する美の司祭は、ハムレットによってあれほど悪し様にいわれた母ガートルードであった。罪深き女が罪深きゆえに、ここではあろうことか罪深き世の穢れとはもっとも遠い存在と思われるオフィーリアの死に行くもののことと次第を、いささかの感傷に流されることもなく、この世ならざるものをこの世の名残に伝え得る白無垢の古代的巫女へと変貌するのである。彼女は、自らの超越的な変貌を通じて、オフィーリアの罪なき者の死を歌い上げる静かな沈黙の絶唱において,自らの遠からぬ死を自覚したはずである。
至純なるものと罪深き女、この二人の間にあって、歌いながら死んでいったと云われる劇中デズデモーナによって歌われる「柳の歌」がオフィーリアの死を踏まえたものであることは明らかであろう。観客はこの上なく悲愴なこの場面に重ねて、引きちぎられた様々の野の花が浮かんだ早瀬や川の淀みを、歌いながら流れて行ったオフィーリアの死に重ねてデズデモーナの死を了解したはずである。
 『オセロ―』は、表向きの『ハムレット』の復讐劇の舞台裏で演じられた罪無くして死に逝くもののテーマを描いているという意味でその続編とも云える位置にあり、シェイクスピア時代の観客は『オセロ―』の背後に『ハムレット』のドラマを二重映しに見るという鑑賞の仕方をしていたのではないかと思われる。
 オフィーリアは言葉なきものの哀憐であった。言葉への道が閉ざされていたからこそ、言葉以前の歌に訴えなければならなかったのだ。また、彼女の死の模様を伝説として伝承として、超時間的な神話として語るガートルードの語りは、いはば沈黙のアリアである。彼女の語りは聞くほどの耳を持った者にしか聞こえてはこない。しかし、彼女は沈黙の彼方に唯一の意思表示としての言語と、唯一の聖杯を受け取るという行為を受け取る、――「いいえ、いただきますわ!」クローディアス王によって、豪華な真珠を溶け込ませたハムレットのために用意された盃を、王の制止を断固振り切って行為に及ぶとは、今までの自由意思なき状況に流されるままのふしだらな女とばかり思われていた彼女の行動を説明するのにまことに不自然な場面である。
 ガルトルードが死と引き換えに受け取った言葉、その言葉はデズデモーナの場合は最初から揺るぎない。彼女がイアゴーらの姦計に余りにも無防備であるのは、正しい言葉はそのような事態には無力であるほかはないからである。『オセロ―』の悲劇は最後まで交わることのない言語と二つの世界を描いていて哀切である。四代悲劇の他のどのような悲劇的人物にも増して彼女は最後まで事の真相を理解しない。愛のみがあって疑う事を知らない女、イアゴーの策略だけでなく、殺人者オセロ―に対してさへ、行為を為したのは誰でもない、この私であるがゆえに死んでいく、と述べるのである。その死に逝く姿は、まさに王者的とでも呼ぶべき威厳に満たされたものなのである。

3.かたちなきもの
 自然科学の世界では、結果は原因なしには起こりえない。しかしドラマは原因なしにも起こりえる、それが嫉妬である、とは劇中のイアゴーの弁である。原因のないものから如何にして煙のように1篇の悲劇を醸成することができるか、それはイアゴーにとってもシェイクスピアにとっても共通の課題であったはずである。
 さきにも書いたことではあるが、『ハムレット』もまた、一般に考えられているようには、父親の亡霊により委託された復讐劇とその成就、と云う具合には単純化できない。劇の冒頭よりハムレットの疑いは、真夜中に出没するという父親の幽霊が真の霊なのか悪霊にすぎないのか
、と云う疑いなのである。劇の進行に従ってハムレットの亡霊に対する疑いは晴れるという次第に進むが、後半に行くに従い現実を見るハムレットの眼差しは妄想を重ねて観るという傾向が顕著になる。すべては彼自身の妄想ではなかったか、乱暴に読めばそのようにも読めるのである。妄想と幻覚に捕らわれた殺人者は、エルシノアの場内で一人ひとり計略に嵌めて殺していく、内省的な青年がいかにしてテロリストに変貌するかの、恐ろしい室内劇である。
 イアゴーもまた実利的な利害を見失った策略家である、そういう意味で『ベニスの商人』のシャイロックとよく似ている。彼らが望んだのは1ポンドの肉だったのか、ヴェニスの連隊の副官の地位であったのかは、本当のところは分からない。戯曲の作者のように指一本で人間のドラマを操れるとしたら、その法外な誘惑に負けてしまうと云うのも人間の性である。劇に憑かれたものの悲劇である。二人とも見え透いた策謀の果てに没落する。操り人形劇の作者たらんとするイロニーは、最晩年の『テンペスト』において主要なテーマとなる。
 『ハムレット』の中に劇中劇があるが、実際に現象として起きたことは、かかる三文劇にも劣らず陳腐である。『オセロー』はハムレット同様、「己の軽率さゆえに不幸を招いた男」の物語なのである、としたら実も蓋もないということになろうか。結局、得をしたのは誰と誰か?敵味方が相打ちになる頃を見はかって登場する隣国の王子フォーテンブラスであろうか、ヴェネツィア共和国の生え抜きの軍人キャシオーであろうか、最後に笑うのは誰であるのか?この辺に、政治劇としてのシェイクスピア悲劇のもう一つの魅力が潜んでいいるのかもしれない。