アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

映画”アマデウス”に連れられて アリアドネ・アーカイブスより

 
この映画はモーツアルトの生涯の後半、ザルツブルグ大司教との決別から活動の拠点をウィーンに移し、彼自身の死までを、サリエリとの葛藤を通して描いている。全編に馴染みの音楽がふんだんに取り込まれれており、モーツアルト音楽の入門書としての価値をも有している。

サリエリはこの映画の中で敵役として描かれているわけだが、映画の最後に自分自身を”凡人の長”というふうに自虐してみせる部分がある。しかし、これは正確ではない。サリエリに欠けていたのは、モーツアルトのように作曲する才能だけであって、凡人であると卑下するには当たらないのである。モーツアルトに最も欠けていた才能、――つまり”経済学”においても神は彼に多くのものを恵んだ。貧しい職人の子が宮廷作曲家にまでなり上がるわけだから、社会的な名誉や運勢をはじめ多くのものを神は彼に恵み与えたわけだから、恨まれた神の方がとんだ言いがかりというものであろう。とりわけ音楽に対する感性、モーツアルトの才能を見出すことにおいては彼の右に出るものはいなかった。これだけでも素晴らしい才能である。彼は一種の反-天才といでも言うべき種類の人間であって、自分自身の内的構造を裏返せばそのまま天才になるのであって、天才の陰画、これも一種の天才なのである。

この映画は天才と二流の人間の関係を描いたという通常の理解の仕方はすべきでない。二人の天才の反発と共感のドラマと見るべきである。サリエリモーツアルトの嫉妬心ゆえに彼の弱点――父親の存在――をつかみ、彼の唯一欠けた才能の領域――つまり”経済学””家計学”――に特化して心理的にこの大天才を追い込んでいく。その心理的呵責の故に自殺を図り、精神的に荒廃し、廃人化し精神病院に収容されに至るのだが、彼の音楽にたくぃする”愛”は消えることがなかった。この二人の天才に共通するものは音楽に対する愛であり、愛の音楽であった。

わたしはこの映画に描かれた新解釈によるモーツアルトの描き方を見ながら、この映画に携わった人たちの音楽に対する愛情がひしひしと感じられて、ある種の感銘を受けた。オペラ”フィガロの結婚”の中に伯爵家に仕えるケルビーノという小姓が登場してくるが、通常は男装したソプラノによって歌われることが多い。思春期特有の感情が誇張された、女性とみれば愛を感じてしまうキューピットのような存在なのであるが、私は音楽に生きること以外の如何なる才能を欠いたモーツアルトの自画像であると密かに信じている。

ケルビーノが登場すると皆が含み笑いをする。人が良くて疑うことを知らない。伯爵夫人は自分に付きまとう小姓の存在を時には疎ましく感じることもあるが、彼の挙動に目が外せないでいる。ケルビーノの存在とは”フィガロの結婚”世界の俗物性、無精神性を徹底的に相対化する存在なのであるが、夫人のみは彼の話す言語、かれの生きている時間が通常の時間ではないことを理解している。

伯爵夫人はモーツアルトの皮肉な女性観が最終的に到達した、ほとんど唯一の理想的な女人といってよい。彼女の嘆きは、伯爵の裏切りや信念や愛の不確かさによるのではなく、時の嘆き、つまり人は時には清く美しく生きることがある、という時間性心理学による嘆きなのである。

モーツアルトの実人生においては、彼のオペラの高みに達したような人物は皆無だったであろう。サリエリをして、モーツアルトほど外見と内容が一致しない人間はないと評しているが、そうではないだろう。伯爵夫人と妻コンスタンツアの徹底的な非対称、彼の音楽性と彼を取り巻く宮廷の徹底した非対称、あまりの非対称性の隔たりの故に、あのように韜晦して生きるほかなかったのだろう。

天才の力は不思議なことに、結局反対者をも最終的には協力者にしてしまう。なぜなら天才の背後には時代の流れが助力しているからだ。この映画の最後にサリエリがレクイエム作曲に協力した次第が描かれている。われわれはこのメロドラマじみたエンディングに感傷的に共感する必要はないのであって、これがこそ音楽の力、芸術の力、歌の力なのである。