アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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10月のベスト・5

10月のベスト・5

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 前略。秋風が立ち、風が頬を拭う。早いもので、blogよりのお引越し寄りにから一年と二か月余が過ぎました。その間も私の身辺に変化はなく、平々凡々とした日々が続いております。しかし、日常が変わらずにある、ということは実は素晴らしいことなのであって、この異色のブログも根気と持続力のみを頼りに今日まで、――過去を閲するとYahoo!blog開始以来の十一年と七か月半が過ぎておりました。

 昨今は、日々老いを感じます。

 

 さて、今月のベスト5も大きくは変化はございません。一位の私の政治状況論は、右や左という言い方がナンセンス化した時代の流れの中で、当然なgら新の革新もなければ保守もない、――特に保守をめぐるザッハリッヒな状況を論じたものです。あるいは元来、保守にイデオロギーがあるはずはなく、第一に格差社会の中で既得権益を守る、第二にアメリカと仲良くしようという発想だけに共通点が見いだされる、潮流の一つに過ぎない、と書いているわけですね。私の主張、先見性もなければ、特段の固有の主張であるとも思われないのですが、なぜか私の私的な政治状況論がこの数か月、一位を維持しています。こういう傾向はYahoo!blog時代にはなかったことで、有難いことだと思っています。お付き合いいただいている方々に感謝です。

 

 二位の冨山和子さんの著作は、私の自然観を決定づけた日本の名著と言ってよいものの一つでしょう。今後も一人でも多くの方に紹介したいと願っています。

 

 三位と四位に村上春樹論、――今年もノーベル賞受賞は逸したようですが、ファンの方には申し訳ない私の固有な評価となっています。

 私の春樹論の特色は、六十年代の政治の季節以降に現れた、日本文学の現状ととらえています。よく言えば日本文学のグロ^バル化、私的には文学のアマチュア化、私性化、伝統の破壊と文学をめぐる植民地的状況があると考えているのです。

 

 五位に、志賀直哉を論じたものが入りました。初めてではないと思うのですが、もともと直哉はそう好きでもないので、今日に於いては書いていたことを忘れてさへいましたが、改めて自分の過去に書いた文章を読み直して、昔はこんな風に考えていたのか、こんな風にも思っていたのかと、自分に教えられてしまいました。そういう意味では、過去の自分の感想を文章に書いて残すとは、思いがけない効果があるようです。

 それにしても、私の直哉に対する評価には申し訳ないほど厳しいものがありますね。

 

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オースティン『エマ』・ⅲ アリアドネ・アーカイブスより

オースティン『エマ』・ⅲ

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 結局、日本語にして上下二段組五百ページに迫ろうとする長大な物語を読み終えて感じる不思議な不全感は何だろうか。一連の謎解きにもにた婚礼ゲームを演じ終えて、最終的にはかくも目出度き寿ぎの次第を作者オースティンの自信たっぷりの「美」解説として最後に聴くわけだが、読者がこれで全て納得するわけではない。
 フランク・チャーチルとフェアファクス嬢の最終的関係に満足したのであろうか。あれだけの性格の違いがありながら、これからも幸せな結婚生活が営まれたという保証を得ることが出来るのだろうか。それにしてもお似合いとは言えない二人のカップルが結び合わされる必然性はあったのだろうか。より分からないのは、フェアファクス嬢はフランクのどこに魅かれたのだろうか。フランク・チャーチルの家柄、経済力、その他のくだらない理由であったとわたくしは信じている。
 それにしても、運命を両天秤にかける優柔不断で不誠実の男フランクを、わたくしは人間として信用できない。作者は、貧しい叔母夫婦の貧困に報いるためにこの孝行娘はお金持ちとの結婚を選択したのだ、と書いてほしかった。
 主人公とされているエマと云う人物についてもよくわからない。軽薄で愚かにもかかわらず世話好きで人間よしと云うだけの、オースティンにとってだけリアリティが感じられる人物について、とうてい人間としての魅力を感じることはわたくしには出来ない。ナイトリーのエマに奉げられた騎士的な愛は、中世の名残か、ファザーコンプレックスであるウッドハウス家の家風に奉げられた形式的で滑稽な儀礼歌であるとしか思えない。エマとは、父親への愛の故に自分は結婚はできないと思い込んでいる娘なのである。父親であるウッドハウス氏の過保護が娘の世間知を狭め、いままたナイトリー氏の古風で騎士的な愛が、兄妹愛の変形として、世間の荒波から彼女を隔てるのである。
 ハリエット!純情でこれと云って取り柄のない素直で信じやすい娘!しかし彼女は終段で驚くほどの人格的な変貌を見せる。猫を被っていたのか。身寄りのない彼女の境遇からすれば、保護者の意思の外側に出て意思し思考すると云うことが凡そリアリティを持ちえないことは理解できる。そこに依存体質の彼女の哀れさと云うものがある。オースティンの描き方は彼女に対して十分に公平で同情的であったろうか。その依存体質も生得のものではなくて、ある時期に於いては拒むことが困難な条件の如きものに過ぎなかったのであって、彼女もまた時期が来れば蝶のように古い意匠を脱ぎ捨てる。そうした物語的世界に於ける時系列の不連続な断面が描かれていて後半の変貌もさほど不自然とは感じられない。しかしそれを言うのであれば、当初作者が見せた紹介の仕方は必ずしも自然ではなかったとは言えるであろう。
 エマの実父であるウッドハウス氏!彼は本当に、描かれたように単線的なお人好しの馬鹿であるのか。彼の擬態の底にあるものとは何だろうか。
 エマの尊敬する元家庭教師兼友人であるアン・テーラーこと後のウエストン夫人!有能な職業婦人と紹介されていながら、彼女はいつの場合も有効な助言やアドバイスをしてきたと云えるのだろうか。またその夫になるウエストン氏とは誰なのであろうか。相当の俗物であるとしかわたくしには思えない。
 唯一、欠点ほどのものを持たないのはジョージ・ナイトリー氏だけであろうか。彼は終始エマのわがままを見守り導く、真の意味の家庭教師である。しかしその家庭教師的な関係は、兄と妹の関係に近い。ナイトリー氏ともあろう程の常識人にして名望家、学歴見識、そして堂々とした容姿ともに備えた地方の名士が、なにゆにこそ愚かな娘を配偶者として選ぶのか、しかも父親のために半ば養子縁組にも近い形式で謙りつつ夫の位置に収まると云うもの、ありそうもない話故にリアリティがある。人生とはこうしたものだと、オースティンなら空とぼけて言いそうである。
 ナイトリー氏の弟のジョン・ナイトリー!兄に比べたら可哀そうであるが、作者によって好ましくはない俗物とて当初紹介されたにもかかわらず、家庭を守るためにはしっかりと決断し、必要な場合は利害を捨てて行動のできる人である。その彼と妻に対して、オースティンの描き方は余りにも公平性を欠いている。
 最後に、良いところのまるでないとされるフィリップ・エルトンと出しゃばりの牧師夫人の二人。エマや作者が口を極めて嫌悪するようなことを二人がしたと云うのだろうか。ハリエットとの縁談話はエマの側が勝手に思いついた空想に過ぎないし、エルトン氏の寄る辺ない環境からすれば裕福な持参金付きの娘と結婚する必要があったのだろう。そうした裏の事情については書くことなく、一方的に、利己心とか計算高いとかの観念的な理由で断罪される。夫人にしてもお節介が過ぎる、出しゃばりであると云うだけで、村の社交界に居て枢要な位置を占めたいと云うだけなのである。それをエマは自分の既得権が侵されることをもって、それが建前としては正々堂々の論理としては主張しえないがために、旧式の倫理道徳の徳目を引き合いに出して、生まれがどうの育ちがどうのと云っているにすぎず、それを咎めだてもしないオースティンの描き方にこそ不公平さを認める。
 
 つまり、世に言われているように、オースティンは神の如き眼差し、善悪を超えた等質で均質な濁りのない眼で描いているわけではないのである。
 むしろ濁った眼で、最初から「わたくしはわたくしの愛娘であるところのエマについて依怙贔屓の眼で描きますよ」と書き出しているのである。しかも悪びれることなく、胸を張って公然自若として、堂々と!
 しかし翻って考えて見るに、オースティンの描き方は、作者と云えども人間であるから公平性や平等性は請け負いかねると云う、正直な意思表明とも受け取れるのである。
 つまりオースティンの文学とは、語られる作者の語りに偏差や偏りがあり、また物語的世界に必要以上には作者が介入してこないため、登場人物の言動やアリバイ証明を通じて得られた資料や伝聞の範囲で最も合理的だと思われる判断を自らの責任の範囲に於いてその都度ごとの結論を手探りで下すことになる。読者は最初から卓越した立場を先験的に与えられているわけではなくて、主人公であるエマと同一水準の、あるいは同一地平の、相互に噛み合いあるいは相反した見解を互いに比較して披露し真偽の妥当性を確認しあう、という読み方が必要なのである。つまり読者の立ち位置は登場人物たちが生きている世界よりもより一段と高く見透しいいが良いわけではなく、通常読む場合の約束事が作者に寄って保証され得ない世界なのである。
 つまりその読み方とは、われわれが現実の世界を生きる場合の手法と違わないのである。わたくしたちは初対面の相手に対して何事かを知ろうとする場合に、最初は当人の表情や言動や意思伝達の能力を通して知ろうとする、次に、彼を知る友人知人、縁故関係にある者どもの意見も参考として聴いてみて自らの判断を検証しようとする。そうしてわたくしたちはほぼ確からしき偶像を手にれるのだが、それが正確であるという保証は誰も与えてはくれない。現実世界をめぐる不確定性の問題は人間観察の事象だけでなく、様々な人生の諸局面に於ける状況や事象において、わたくしたちは手探りで現実を手引き寄せようとする。その場合のリアリティの根拠は何が客観的に真実かと云うよりも、私たちが感じる現実が持つ手応え感の他にはなにもないのである。リアリティの保障は、実際にはある一定幅の期間を生きてみて可能性が確からしさへと、確からしさが蓋然性へと変化する主観的確信の世界に於いてでしか確かめる術はない。こうした世界では、もし確信犯的に誰かが嘘を言っていたりまた相手が偽善者であることを少しも恥じないような人間である場合は視界の歪み、判断の不確定性は防ぎようがないのである。
 オースティンのロマネスクの世界に参入するとはそういう意味なのである。オースティンの語りの世界に参加するとはそういう意味である。いっけん語りは滑らかで、均一で、この上なく平板、平凡のようでありながら、やはりわたくしたちの日常生活の事件や出来事、こまごまとした些細なシークエンスを通過する場合においては、不連続面に雁行して展開する。いままで平明だと思われていた視界は一瞬閉ざされて、わたくしたちは幾つかの断層を不連続な壁面に添って手探りで通過していかなければならない。その時、思惟判断し、意思選択、あるいは意志するのはわたくしたちの各々の一人一人なのである。誰も他者が自己に成り代わって思惟判断、そして意志するわけではない。生きることとはそういいうことである。生きることに伴う、オースティン・ロマネスクの臨場感とはそういうい意味である。絵空事を描くものとして出発した筈のリアリズムは一転して、オースティン的なロマネスクの世界のなかで現実の不確定な感触を想い出すと云うことなのである。
 オースティンのロマネスク=リアリズムの世界は、ロマンをこの世を超えた異常現象や、反転してありそうもない感傷的な物語世界的絵空事を批判的に描くことをもってして近代小説の基盤として定義すると云う姿勢に於いて出発しながら、他方において、現実そのものと通常は考えられがちな現実主義や写実主義が自らの志向が不可避的に持つ世人としての惰性態の空疎な外殻に、瞬間的に罅を入れると云う意味で、なかなかに辛辣で大胆な日常批判を、近代リアリズム小説の革新的な意義を今日に於いてもなお有しているのである。
 
 
 最後に、ネットで眼にしたhttp://www.geocities.jp/utataneni/という方の漱石のオースティン論を、以下にお借りして紹介しておく。引用元は有名な漱石の『文学論』である。余りにも有名な日本文学「史」上の出来事なので、初見の方の参考になればと思い。
 
Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入る(略)

Pride and Prejudiceを草するとき年歯廿(わたしののおっせかいな注 二十)を越ゆる事二三に過ぎず、しかも写実の泰斗として百代に君臨するに足る(略)

今代の認めて第一流の作家と疑わざるもの、(略 『分別と多感』によって)得たるは僅かに百五十磅(わたしの注 ポンド。しかしクレア・トマリンの佳作『ジェイン・オースティン伝』によると140ポンド)に過ぎず。然もAustenは過大の高額とせり。天才の冷遇せらるゝや概ね斯くの如し。然れども(略)一八一五年に至ってAustenは既に文壇の意識を動かして、之を吾が方向に推移せしめたりと云うも不可なきが如し(略)

上2つは、第四編「文学的内容の相関関係」第七章写実法より
最後のは、第五編「集合的F」第六章原則の応用(四)より
なお原文は旧かな・旧字体
 

オースティン『エマ』・Ⅱ アリアドネ・アーカイブスより

オースティン『エマ』・Ⅱ

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 さて、それからの続きであるが、村の牧師エルトンの意思を取り違えたエマは失敗に凝りて、ハリエットに対していらざる世話は罪造りであることを学ぶ。にもかかわらずハリエットの傷心を見るに見かねて様々に手当を使用と試みるのだが、その中の一つに、――これは願望に留まったとは云え、フランク・チャーチルの存在があった。
 フランク・チャーチル!読者にとって一番共感を得にくい存在である。フランクとエマの繋なりと云えば、エマの家庭教師兼亡き母親に信頼されていた友人でもあるアン・テーラー嬢が再婚先として嫁いだウエストン氏、彼の先妻には名門のチャーチル家があって、亡き妻の名残である一人息子のフランクは本家に後継者がいないことから請われてチャーチル家に入ったとされている。
 この息子は、裕福な名門眷属に迎え入れられて何不自由なく暮らし、他方では母に死なれ、幼いころから実家から引き離されて養子としての待遇を感受せざるを得ないと云う、厚かましさと自己防衛的な遠慮と云う相反する不思議な性格を身に着けることになった。
 このドラマでは後半においてしか語られないのだが、かれは過去にバースと云う保養地で細やかな恋をした。その相手が持参金もなく身分も不安定な私生児・ジェイン・フェアファクスであった、と云うことなのである。当時の時代背景から見て、名門の子弟が素性はともかく後ろ盾を欠いたいち私生児の若い娘と結ばれるというストーリーはありそうもなかった。そえでこの恋は秘密の世界のなかの出来事として終始するほかはなかったのである。
 にもかかわらずと云うべきか、時の経過は偶然の奇妙な組み合わせを生み、和合とも云える幸せの道を開いた。家門意識の象徴であった義母がなくなり、フランクの不決断に業を煮やしたフェアファクス嬢が乾坤一擲とも云える、家庭教師の職を得、職業婦人として世の中に泳ぎ出ようと云うのである。彼女の蒲柳な体質が家庭教師の過酷な環境に堪え得るとは思えなかった。彼女の切羽詰まった決断の無防備さが、ようやくフランクの優柔不断の終わりを、つまり「決断」をどうにか生んだと言えようか。
 良くしたもので、フランクの秘められて秘密の開示は不思議と義父には受け入れられ、周囲の理解も得られた。秘密をカモフラージュするため彼はエマにも近づき、あるいはエマからハリエットの将来の相手として非公式に差し向けられても明確な意思を表示しては見せなかった。それで曖昧なままにエマに導かれるがままに、またもやハリエットをめぐって悲喜劇が演じられることになったのである。
 さらに、かれは当のエマとも相応しい関係とも周囲からは観られていた。例によって彼はより周囲の誤解を自らの秘密をカムフラージュするために積極的に利用した。二人の関係を夢のなかに描いていたウエストン夫妻にとってはフランクとフェアファクス嬢との電撃的な婚約の開示は、夫妻にとってクラスがより上位であると考えられるウッドハウス家と長年にわたるエマとの人間関係からしても、大いなる罪作りであると思われた。しかしエマにすればそれほどフランクに関心をひかれていたわけではなく、これは嬉しき誤解としてそっけないほど上品に処理されたのである。
 とはいえ、煽てられてその気になっていたハリエットの傷心にはただならぬものがあった、と云うべきだろう。
 
 このあと小説には明瞭には書かれていないことであるが、いくらおとなしいいいなりのハリエットにしても度重なる自らの悲運さに、復讐心を抱いたのではなかろうか。それとも彼女の方で勝手に思い違いをしていたのであろうか、あろうことか当のナイトリー氏から愛の告白と見まがうほどのものを受け取ったと、エマの前で告白したのである。
 エマは、このところ悲運さに付き纏われえいるがゆえに、このありそうもない縁談話をそのありそうもない性質であるがゆえに信じた。こうして彼女の周囲で彼女だけを除いて幸せなカップルが巣立っていくのを見るにつけても自分だけが立ち遅れたの感じないわけにはいかなかった。彼女の脳裏を婚期を逸して老嬢となって於いていった縁故知人たちの面影が幻のように過ぎる!自分もやがてはああなるのであろうか、と。
 こして万事休す!の状況の中で、全ては彼女の思い過しであったこと、ナイトリー氏は彼女以外のことは考えていなくてものごころついたころから好きであったことが明らかになる。こうして万事は目出度し目出度しのなかで幕を迎えると云う意味では他のオースティン作品と変わらない。
 変わったのは、まさに円熟期を迎えたジェイン・オースティンの不確定性な筆の運びである。オースティンの文学が前例もなく、後継者も欠いて編み出した固有のロマネスクの技法こそ、天才とは誰のことであったのかを読者は思い知ることになるだろう。

オースティン『エマ』・Ⅰ アリアドネ・アーカイブスより

オースティン『エマ』・Ⅰ

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 『エマ』は不思議な小説である。小説技法の巧みさと云う点では神技と云うものを感じさせるし、内容の平明さ、平凡さ、と云う意味では年齢からする衰えをも感じさせるが、しかしかく云う批判的言辞の一片を連ねながらもなお、偉大なる才能の持ち主を前にするとそれを自信を持って主張することが出来ない。
 
 第一に述べておきたいのは、オースティンの作品では例外的に「エマ」と云うタイトルロールのような題名がつけられている点だろう。彼女は「エマ」において何を描こうとしたのであろうか。なに不自由なく育ち、才能や教養の点でも何となく人並み以上にできてしまう、――その長所が家柄やその他の俗性ゆえに周りの人びとからは卓越した人格として認められ、常に賞賛の言葉を持って迎えられ、分別が出来る頃まで過ごしてきたと云う設定は、実を言うと近代小説の主人公の設定の仕方としては尋常ではない。しかし自惚れと云うよりも、周囲がそれを認めるのであるから主観的な思い込みとは言えないわけであって、ただ過剰な自負が人生観上の選択に関わる問題に接した場合に、判断力はことごとく裏切られてその咎は自らに還ってくる、と云うのがこの批判的小説の概要と云えば云えるだろう。
 
 この小説を簡単に紹介すればこのようになるだろう。育ちと云い才能と云い万事幸運に恵まれたエマ・ウッドハウス嬢は、私生児ハリエット・スミスの面倒を見ることにある。彼女は自らの価値観に従ってハリエットにはレディになって欲しいと思っているから、せっかく寄宿舎時代にまとまりかけていた村の農夫・ロバート.マーティンとの縁談をご破算にしてしまう。その代り持ち出してきたのが村の計算高い牧師フィリップ・エルトンだが、例によって表情を婉曲のままにしておくのが上流階級の仕来りであると勘違いしているヴィクトリア朝式の偽善性ゆえに、エマとエルトンの本音と建て前は交差しないまま、結局ハリエットを失意のどん底に陥れるだけに終わってしまう。結局、エルトンの何が悪いと云うよりも、彼は最初から持参金付きの娘が婚約の第一条件だったのであるから、むしろ咎は一方的に自らの価値基準を他者に押し付けるエマの不見識にこそ向けられるべきであるが、作者オースティンはそのようには考えずに、エルトンの利己心や計算高さだけを一方的に槍玉に挙げる。彼女が示すしばしばの勘違いは、自らの清教徒主義的独善性、非寛容さを白日の下に、押し出し強く胸を張って読者の前に晒す点だろう。
 
  村にはもう一人の謎めいた女性がいる。ジェイン・フェアファクスと云うのだが、何でも幼い頃に軍人だった両親と死別し、その後父親の友人の家族の好意で引き取られ、実の家族と同様に愛されて成人したのだとか。その軍人家族には一人の娘がいたのだが、その娘が容姿その他に於いて十人並みであったのに対して、フェアファクス嬢はいわゆる優れた女性の特質を備えて実の娘以上に愛されたとか。にもかかわらず実の娘との関係は良好で、今日に於いても良好な関係を維持している。しかし時の流れはいつまでも子供の関係であることを許さず、実の娘の方は最近幸せな結婚生活を手に入れて夫の新しい任地アイルランドに旅立ち、また新夫婦と両親、あるいはフェアファクス嬢との関係も普通以上に濃厚で、家族を挙げて数か月アイルランドの新家庭に同行することになり、当然フェアファクス嬢も――家族同様の関係であったことから、同行されると思われていたのだが、今回に限り辞退し、いまは唯一の親類筋である叔母の親子が住んでいるこの村に休養のために帰っている、と云うことなどの事情が謎めいて語られる。
 この家族と新家族のことは最後まで伝聞以上のものとしては語られないが、姜家と麗しい人間関係の数々としか思われないのであるが、エマは勝手に新家庭とフェアファクス嬢との間に禁断の三角関係があったのではないかと想像する。
 と云うのも、エマは決して認めたがらないことであるが、教養、技芸、そして容姿その他に於いて卓越したものがあるフェアファクス嬢の登場は、見識、家柄その他に於いて村一番を自認するエマの権威を揺るがしかねないものがあったと想像されるからである。さらにエマが認めがたいのは幼い頃より兄弟同様の関係で育ってきた若き農園の主ジョージ・ナイトリーに対して、彼女が潜在意識の領域では自らの他に代えがたい筒井筒の関係を想定していたかも知れず――実際にはそのようにドラマは進行するのだが、その場合は村一番の彼女を凌駕するフェアファクス嬢の存在は強力なライバルとして立ち現れる可能性もないとは言えないのである。こうした潜在的利害関係が存在することは、エマがフェアファクス嬢を正当に評価しにくい位置に居ることを物語っているのだろう。エマを、諸事万事が恵まれた日が当たる世界の代表とすれば、日陰の花のように咲いたフェアファクス嬢は、対極にある陰陽の関係にあると云えるだろう。
 フェアファクス嬢について考える場合、作者であるジェイン・オースティンとは本当はどんな女性であっただろうかと空想をしてみる場合、彼女の思い出を語る光線は小説の世界同様の平均化され、一様に平板化され照らされたロココ模様の、美術工芸品的なパステルカラーの額縁絵画に縁取られ、凡そ何事かの真実をここから読み取ることには不向きなのであるが、それに加えて没後の彼女の文学に奉げられた神格化がただ事ではなく、それを受けて描かれた彼女の肖像画と云われるものも相当に理想化が働いている、とされる。そううすると「理想化」と云う手法は彼女が創造した小説世界のヒロインたちにも及んで、実際のジェイン・オースティンとは控えめで遠慮深く慎ましいとされたロココ風の肖像画は、もしかしたら評価されることなく日陰の花の時代を寡黙に生きたジェイン・フェアファクス嬢の素直さや率直さを欠いた、自然が赴くがままの開放性と云う美質を矯めた生き方に手掛かりがあるのかもしれない。
 
 小説『エマ』の世界のなかから以上、ハリエットとフェアファクス嬢と云う対照的なキャラクターについて紹介したわけであるが、二人の立ち位置の違いは性格のみではなく、前者が狂言回しとして劇の進行役として利用されたのに対して、後者はより本質的な意味での影の主役として、オースティン的なロココ的な照明に輝く正の世界に対する、存在論的に対極にある影の世界に生きる人物を配置することで小説世界としての構造を両翼に於いてロココ様式を安定させる、という意味を持っている。
 それからどうしても言っておかなければならないのは、晩年の大作とも云える小説世界に於いてジェイン・オースティンは人知れず自らの自画像を秘かに描いたと云うことなのかもしれない。もしかしたら、ありそうにない想像を言うのだが、彼女は人に好かれる性格ではなかったのかも知れない。自らを無防備に、そして他者の前に晒すと云うことが出来ない人であったのかもしれない。つまり真に人から愛されると云う経験を未経験のままに過ごさざるを得ない人であったかもしれない。それゆえにこそ生まれながらして誰にでも愛されると云うエマのありそうもない性格、絵空事は、ジェイン・オースティンにとってだけ、リアリティを持ちえたのではなかったか。
 それでも日陰の花に終始するかに見えた不運の私生児のフェアファクス嬢が物語的世界の最後には周囲に認められて受け入れられたように、これはこれでこれもまた生涯を孤独と孤愁のなかで過ごしたジェインのもうひとつの失われた顔、もう一つの夢であったのかもしれない。
 ジェイン・オースティン≒ジェイン・フェアファクスなのである。(フェアファクス嬢こそ最後の作『説きふせられて』のアン・エリオットに連なる人間像なのである)。二人のジェインの関係をさておいて、今まで語られてきたエマをめぐる物語は真の主人公が誰であったかについて、古今様々に語られた諸家の諸議論に於いて無感覚、無神経であり過ぎたとは言えるだろう。
 
 
 
ジェイン・オースティン『エマ』Emma、1816年) 安部知二=訳 中央公論社 昭和40年4月初版印刷

オースティン『説き伏せられて』 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ”アンは若いころ分別を強いられ、年をとるにつれてロマンスを学んだ”(本文)
 
 オースティンの最後の作品は、この一行に云い尽くせるであろう。通常人は、年長けて理性や分別を学ぶものだが、オースティンの登場人物たちは情熱を学ぶ。
 フランス革命とナポレオンの大陸戦争と云う人類史の画期、新旧の時代の端境期に生きたオースティンには、維新期以降の時代を生きた同じく才女である我が樋口一葉との共通点のようなものがあって、それは世の中の動向に曇らされることのない明敏さ明晰さであり、ともすればそれは男勝りのリアリスティックな皮肉や冷笑的態度と重なることもあった。ただ同様の天才とは言っても、ロココ的優雅さの世界に留まったオースティンと、『にごりえ』などによって定義として人生の最低の水準に触れ、断末魔の死闘との云えるほどの壮絶極まりない戦場に赴いた最晩年の一葉とは根本的に異質な才能の持ち主ではあったけれども、天才が花火のように短命では終わらない、彗星のような残照を曳く一葉の最後の乾坤一擲とも言える思いと、オースティンのあくまで穏やかに慎ましやかに語り終える余裕と人生の豊穣との比較は、所詮は好みとしか言えない場面で決着を迎えるほかはないであろう。
 
 物語は単純、まだ人生経験が伴わない若い男女がロマンス劇を、心ある中年女性の叡智溢れる助言によって一旦は諦めるが、八年後に結ばれる、と云うお話である。
 舞台設定が19世紀の初めのころであるから、家柄や育ちと云うことが婚礼の第一条件とされていた、――すくなくとも上流階級では。それらを単なる属性として退けるには、当時の彼らには力が足りなかった。あるいは情熱も!と皮肉ではなしに云うことが出来るのかもしれない。
 しかし八年の長い歳月は二人を変えた。それは精神的な意味だけではなく、具体的には、富と権力を身につけたウェントワース大佐は、名門ウォールター・エリオット家の令嬢アンに正式に申し込める立場を得た、と云う言い方では皮肉も過ぎる、と云われるだろうか。
 むしろ今日の読者が読んで感じる違和感は、一方的に婚約を破棄しておいて――見識ある令夫人に「説き伏せられた」結果とは言え――八年後において婚約が目出度く成就する過程に於いてすら、過去の自らの言動を良しとする、主人公の悪びれぬ態度であろう。もう半世紀後の作家であれば、本人の人柄や能力よりも家門意識や経済力のようなものを優先させた自らの知見の愚かさ浅はかさを述懐して一篇の教訓とすると云う話の結びになりかねないのだが、オースティンは過去の決断も現在の選択も共に正しい判断であったと胸を張って言うのである。ここにある考え方は、愛と云えども環境や状況と云う強固な枠組みの中にある限界性と無縁ではあり得ないこと、客観的な条件そのものが変化しない限り過去に生じた出来事を(現在からみて)是とすることも否とすることも観念論や恣意的的判断の誹りを感受せざるを得ない、と云うオースティン固有のリアリズムがあるのであろう。
 
 じつを言うと、かかる冷徹とも冷酷とも云えるレアリズムであるからこそ『説き伏せられて』はオースティン文学の掉尾を飾る傑作と云ってよいのである。
 この作品には、一葉にも劣らぬ「冷笑のひと」オースティンの自己批判がある。その場面は、土壇場になってもなお手掛かりを見出せずにいる、三十前後の老成した二人の元恋人たちに対して、見るに見かねた親友のハーヴェイ大佐が助け舟を差し出す場面である。窓辺で一人離れて書き物をしている件のウェントワース大佐に聴こえるほどのほど近さに大佐はアンを呼び出しておいて、恋愛感情における男女の優越論などと云う、この世離れした論争を繰り広げる。愛において、男と女の愛にはどちらの方がよりよく純粋性を保ちえるものであるか。アンは当然のことながら、長く持続すると云うことにおいて女性の方であると云う。大佐は、遠洋航海に出る離別哀惜の情を綿々と述べ、行動性の強さゆえに愛も強いと主張する。双方に譲らない。論議はお開きとなるかに見えるが、実は引っ込み思案のアンの恋愛観を一般論として語らせせて、そこにウェントワースへの思慕が重なっていることを、書き物に没頭してるふりをしている大佐の耳に届けると云う離れ業と云うか、高貴な企みがあったのである。ウェントワースは二人の会話を聴きとがめて書いていたペンを思い余って取り落とす。
 この男女の恋愛論を通して得られたのは愛の優越であるよりは、アンの経て来た長き青春の日々がもたらした歳月に向けられた述懐、――本当の愛情や貞節を女だけの特典と考える様なら、そんな女は見下げはてた存在であること。男たちは世の艱難辛苦に堪え、にもかかわらず女の愛情からすらも見放されてあるとするならば、余りにも男と云う存在は可哀そうすぎる、云々と云うものだった。
 これを聴いたら、どんな鈍感な男でも愛の告白と云うことに気づいたであろう。
 
 ジェイン・オースティンの最後の作品、『説き伏せられて』。何かに似ていると思えば、シェークスピアの『冬物語』を思い出していた。
 共通するものは何もないのかもしれない。イギリス王朝史の熾烈な権力闘争を間近に見聞したと思われるシェイクスピアの文学と、首都の喧騒を遠く離れて悠々自適の如く典雅なる家庭小説の祝祭的儀式のタペスリーを織づづけた主婦業の達人、平凡性の象徴であるとともに時代思潮に抗する手強い保守陣営の擁護者でもありえた、生涯独身であることを貫いた誇り高いイギリス人女性との間に!
 オースティンに悩みはなかったのだろうか。しかし本源に還って、人生とはなにか、真実とは何か、とハムレットのように性急に過激に自己が問われるとき、人生の外に回答を見つけようとするのではなく現世のなかに、ある幅を持った人生の厚みのなかに可能で最適なものを見出そうと云う姿勢において共通するものが感じられる。たしかに時期を逸したもの、失ったものは痛恨の如く帰らない。人生論とは常に既に後の祭りであるとは本当のことだろう。分別盛りの二十八歳にもなったアン・エリオット嬢の克己練磨された人生経験と人生観照の果てに見出されたものが、愛ではなく愛情との取り違えである、と云ったところでどうなるものでもないだろう。
  年ふって、確かに彼らはロマンスを、と云うよりは情熱を学んだのである。人はこの世の中で何ものかであるためには情熱や熱情と云うものがなければ、何ものかであることはできない。
 
 
 
ジェイン・オースティン『説きふせられて』(1818)Persuasion 富田彬訳 
岩波文庫 1998初版2007年10刷
 
※ Persuasion「説き伏せられて」、には賛否両論があって、以前は単に『説得』とされていたようです。

J・L・カー『ひと月の夏』 アリアドネ・アーカイブスより

J・L・カー『ひと月の夏』

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 現代の擬古典主義と呼んでもいい、カー(James.Lloyd.Carr)と云う本国でも必ずしも知名度の高いとは言えない作家の掌編『ひと月の夏』、――第一次大戦後のイングランドの片田舎の廃墟にもにた教会の天蓋に描かれたフレスコ画の修復に訪れた傷痍軍人としての元画学生の青年と、中世遺跡の神秘の陰りを曳きずった牧師の妻との間のつかの間のロマンス劇は、わが国で云えば水上勉の『越前竹人形』と高度成長期の時代状況の対比と、どこか似ている。谷崎潤一郎をして、どこか古典のようなと言わしめた擬古典主義の様式は、むしろその仕組まれた反時代性として際立つのである。
 この小説にも筋と呼べるほどのものはなく、ある種の塹壕トラウマと後遺症としてのパニック症とも云える顔面痙攣に苦しむ元画学生の青年が、漆喰に塗り固められたフレスコ画を復元する過程と、薄命感を漂わせる牧師の妻――ボッティチェリプリマヴェーラに似ていると表現される――や心優しき村人たちによって癒されていく過程が、夏から秋へと美しく移ろっていくイングランドの田園風景とともに語られていると云ったら、この物語の大半は語ったことになるだろうか。
 美しいイギリス東部の草深き田園風景、廃墟のような中世以来の小さな教会、礼拝堂の天蓋に塗り込められた最後の審判を描いていたと思われるフレスコ画の復元作業、その忘れ去られたような廃墟の一隅に蜉蝣のように住まう美しき牧師の妻、他方には同じ傷痍軍人で中世古期のカテドラルの跡を調査し、その調査過程を論文にすることでアカデミズムの世界に復帰しようと云う野心を秘めた同性愛の男も登場してくる。そうして、これらの影のようなロマネスクの背後には、堂守や駅長の家族などが属する温かみのある日常世界が控えている。
 物語の結構は、それぞれの落としどころを見つけて収斂する。フレスコ画の修復作業は時代と地理的環境を考慮しても予想外の財力が背景にあったことを物語る程美術品としては贅を尽くしたものであったことが明らかになる。そして修復作業とは別に、地獄に堕ちる深く漆喰に塗り込められた人物を通して、ある一族の歴史が明らかになる。その三日月の印を背負った人物こそ、――三日月とはイスラムの象徴である――教会のなかに葬られることが憚られ、聖堂の直ぐ脇に葬られた石櫃の主と一致するのであるが。
 そしてこの人物が、聖堂の石畳に葬られて伝説ともなった貴族の妻と関わりがあったのかどうかは読み取れないのだが、この早世した薄命の美女は醜いこの世のことどもを見ることなく旅立ったと云う感慨が主人公たちの間で語られていることからすれば、貴婦人の死を悼んだ哀切極まりない墓碑を刻んだ当人とも思われる。あるいはそう読んだ方が物語の首尾としては一貫する。牧師の妻が気配もなく音を立てることもなく聖堂の暗がりの片隅に現れて画家の修復作業を見守っていると云うのも、もしかしたら彼女が謎の伝説上の騎士によって哀切極まりない墓碑を奉げられた、当人の生まれ変わりであったかもしれないのだ、と云う暗示すら与える。
 この小説を読み終わったあとの上質の紅茶を飲んだような読後感は、二か月にも足らぬイギリス北部の片田舎でのささやかな経験が美しき風景の実在となったのは、一人の女性(にょしょう)を愛すると云う、ロマンティシズムの経験のなかでこの世が観られ語られたからである。フレスコ画の修復や中世古期のカテドラルの発掘、駅長と云う職を持ちながら他方では伝道師としての側面を持つ不思議なメソジストの家族たち――イギリスでは少数派である――との交流などなどと、舞台装置も道具立ても様々で、まさにイギリスの古典趣味を彷彿とさせる装置や仕組まれたエクステリアの数々は、ここに伝統工芸品か宝石箱のような、精緻で華麗な小品を夢淡き現代の読書会に送り出すこととはなったのである。
 
 魅惑的だが蜉蝣のように廃墟の壁を伝って歩く美人の牧師の妻について語る機会を得なかったから最後に語っておくと、最初は如何なる気配もなく忽然と足場の下の暗がりから現れる、後には足場の梯子を上って来てフレスコ画の修復過程について間近に語る介在する距離感は、彼女が葬られた中世の美女の亡霊であり、秘められたタブローの精霊であることを暗に語る。
 最後に、修復作業を終えて給金を懐にして離別の逡巡に彷徨う主人公を、その住まいであった鐘楼の部屋に妻が訪れてくる場面がある。途切れがちの話の接ぎ穂がなくて、ひと時石造りの小窓の窓辺に寄ったそこからは、発掘作業を終えた現場の一望を見ることが出来る。気が付くと窓辺の後ろには牧師の妻が立っていて、二人して珍しい中世の秘密を覗き見するかのように、重心を前に倒した胸の膨らみが語り手の背中を押す。本編のなかで唯一エロティスム溢れる場面であるが、なぜか主人公は振り返ることができない。永劫とも呼べる時は永遠に失われたのである。
 このあと、自暴自棄になった主人公が無人となった広大な牧師館の呼び鈴を狂気のように鳴らし続ける場面が続く。人気のない広大や館の部屋から部屋へと、虚しく響く呼び鈴の音が彼の魂に成り代わって亡霊の如く彷徨う。固く閉ざされた牧師館の扉に前進を阻まれながら、遊離した魂が呼びリンの音と化して自らの孤独と寂寥とを幻聴のなかに魂の軋みとして聴く、この哀切な物語はここで終わっている。
 
 
 
 
J・l・カー『ひと月の夏』A Month in the Country (1980) 白水u ブックス1993年10月 小野寺健=訳

ハイネ『流刑の神々・精霊物語』 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ハインリッヒ・ハイネの『流刑の神々・精霊物語』(岩波文庫版・小沢訳)を読むと今から百五十年以上も前のドイツロマン派の残り香が香る名著が、如何に新国学ともとも評された柳田民俗学の、とりわけ『遠野物語』や『山の人生』などの時期の柳田と関係が深かったかが分かる。
 
 キリスト教渡来以前の、土地の精霊やギリシアの神々は如何にして、悪霊なり怨霊となって駆逐されていったか、基本的にハイネの姿勢は同一だが、前者を扱ったのが『流刑の神々』であり、後者を描いたのが『精霊物語』である。物語としては、わたくしには後者の方が面白く読めた。
 
 他方、若き日の柳田国男は、仏教渡来によるドイツに似た日欧の平衡現象と、主として檀家制度等による宗教のシステム化が精霊や土地の棲息する八百万の神々を駆逐した、とみている。
 これら、日欧両方で進行した文明史的過程は、宗教対土地の精霊たちの対立と云うよりも、人類が自然との交渉を持つ過程で複雑化し、文化や文明を形成する過程で自然のままではあり得ないと云う、進化の過程の文明論的な苦渋があったのだと思う。主要な諸宗教が土地の精霊たちや神々の神話を駆逐したのではなく、より広範な、宗教と結びついた習俗であるとか慣習、習慣や道徳性や倫理観などがマルクスの言う、所謂、上部構造を形成し、それらが自然と、人間が持つ、人間に内在する自然性に対立していったのだと思う。
 さもあれ、自然に還ることはできるのだろうか。ロマン派以降、文明に対する反対者たちの論拠を心情的に支えたものはこの種の論議の周辺であった。
 
 しかし、自然とは、なんだろうか。
 第一に、欧米のナチュラリストたちが言う、原始原生のものとしての、ワイルドなものとしての自然。環境保護団体が口にするもののことである。
 もう一つの自然概念は我が国独特のものの考え方であって、自然とは文明国のなかで理念的に抽象化された概念に過ぎず、人類史は歴史を刻む過程で、その都度ごとに第二の自然と云うべきものを生み出してきたのではないのか。
 第二の自然概念にも二つあって、ひとつは、日本三景や○○百景と呼ばれるような、民族の生存の継続と継承の意思たる、人間と自然の交互作用によって生み出されたものである。今日みられる桜の名所と称されるもののほとんどはこの範疇に属する。人が自然に働きかけ、働きかけられた自然は自らの自浄作用のなかで、自然は第二の自然となる、と云う仕組みである。
 第二の自然概念のもう一つのものは、ものとしての「自然」と云うよりも、人類や民族の心性のなかに内在する「自然性」とでも云うべきものである。自然性とは、人間が自然に働きかけ、働きかけた自然が共労的自然として人間に反作用を及ぼす、その及ぼし方を自らの内在的な自覚として「自然」ととらえる、自然性の自覚の如きものである。
 この本を読みながらそんなことを考えた。