アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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3月のベスト5 中間

3月のベスト5 中間

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 当月ベスト5の中間も、村上春樹ものがこのところ上位を占めるようになりました。

 わたしの拙い政治状況論?は昨年の八月以来、なぜか一位を更新しています。特にユニークな観点や目立った論点を形成しているわけでもないのに。

 いまは知る人ぞ知る存在となってしまった、フランスの戦後作家ベルナノスの作品が初めてベストランキングに入ってきました。

 

 5位の私の近代文学論は独特の表題をつけていますので、ここいらで説明が必要でしょう。

 デカダンスとは、風紀の乱れた生活を送る作家たちのことをここでは意味しません。まっとうな人間が全うであるがゆえに、時代の制約の中でデカダンスの位置に押し込められていく苦悩と苦渋を意味しているのです。この論文に注目していただいた方に感謝します。

 

 

右寄りと左寄り、あるいは政治の色分けについて | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの 2012-11- | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

ベルナノス『影の対話』或いは現代の聖女論 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

 

日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(上)――耽美と唯美主義――谷崎(2016・12)アーカイ | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

フランス映画”青い麦”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
こうゆう青春ものを私はそれに相応しい年代にほとんど読んでいない。今回この映画を見るために多少調べたら、コレット50歳すぎの作品らしい。それで劇中、有閑婦人カミ―ユ・ダルレーが抒情的に描かれているわけだと思った。

下記に、”青い麦”とコレットについて辛口の批評があるので紹介しておく。引用は”読書の森”という文学系のブログである。同性であればこんなにも意地悪く読めるのかと感心した。

私は原作を読んでいないので映画を見た範囲での話なのだが、クロード・オータン・ララと言う人は、いかにもフランス映画らしい映画に仕立てた。映画の仕上がりは思春期を描いたものなのか、有閑婦人のひと夏の憂愁を描いたものか分からなくなるほどである。

わたしはむしろこの映画に、モーツァルトのオペラ”フィガロの結婚”やリヒャルト・シュトラウスの”薔薇の騎士”に面々と受け継がれたロココ風・宮廷的恋愛のはるかなる回顧を感じる。勿論、時は現代である。第二次大戦を経験して、ロココ風などと気取ることは誰にも出来はしない。婦人の出自を映画は描いていないが、ちゃんとした社会的階層に属する人ではあるまい。そうしてこうした階層のボーダーにいる人間であるからこそ、一夏の時間への惜別をかくも感傷的に、かくも懐古的に描きえたのである。

誰もが言っていることだが、有閑婦人カミ―ユを演じたエドヴィージュ・フィエールの悠々と迫らぬ気品と貫録はどうしたものだろうか。最後の時への告別を告げる焦点を失った遙かにさまようような眼差しが実に良い。映画ではこの後二度と姿を見せず、引っ越し後の不在感としてのみ表現されるのが、だらだらと感傷をあおるよりは清い。

思春期とは、精神的なものと物質的なものの不安定さゆえに愛の保障というものを欠く。映画の中で21歳になる”五年後”が繰り返し語られるのだが、そのことに何の保証もあるわけではない。すべてがおままごとめいた観念性の中を通過する。しかし肉体は違う。肉体の身は自分でも知らないうちに成長を遂げていくものである。ここに思春期者の残虐性がある。

思春期というものがそのような限界を持つものならば、この映画をみてつくづく感じたのは、純粋さとは青春期に固有のものではないのではないのか、ということだった。自分自身を社会的階層のボーダーの外に置き、ある種の断念の上にこそ愛を定義づけたカミ―ユの中にこそ愛の二元性を超えた純粋さを感じてしまうのは深読みというものであろうか。

青い麦/LE BLE EN HERBE
   1953年・フランス映画

監督:クロード・オータン=ララ 原作:コレット 脚本:クロード・オータン=ララジャン・オーランシュピエール・ボスト 撮影:ロベール・ルフェーヴル 音楽:ルネ・クロエレック 出演:エドウィジュ・フィエール、ピエール=ミシェル・ベック、ニコール・ベルジェ、ジョジアーヌ・ルコント、ルイ・ド・フュネス

以下は、ブログ”文学の森”からの引用です。

ガブリエル=シドニーコレット(1873~1954)は、多才な女性です。作家としてばかりでなく、戯曲家として、詩人として、随筆家として、音楽・演劇評論家として、ジャーナリストとして、そして舞台女優としても名を成しており、1953年には勲二等レジオン・ド・ヌール勲章を授与されています。また、1954年に亡くなった時、母国フランスは国葬を以って、その功労に報いました。彼女こそは、現代の女性作家として、最高の名誉を担った女性であると言えましょう。

 この「青い麦」は、「シェリー」(1920)や「クローディーヌの家」(1922)のような、彼女の代表作と言われるほどの傑作ではありませんが、その後を受けて1923年に出版された、彼女の円熟期の作品です。南仏の海辺の町を舞台に、思春期の少年と少女の、不安定で傷つきやすい心理と愛の芽生えを、女性らしい繊細な感覚で描き出したこの秀作は、みずみずしい青春期の息吹に満ちあふれています。


<ストーリー>
 幼馴染で、両親が友人同士であるフィリップ(16歳)とヴァンカ(15歳)は、毎年夏のバカンスを、それぞれの家族とともに、海辺の町カンカールで過ごしている。互いを異性としてまぶしく意識し始めながらも、フィルは少年らしい尊大さと自意識過剰から、ヴァンカは少女期の不安定な頑なさから、もう一歩を踏み出すことができない。しかし、「その時」を待つことを知っているヴァンカに比べて、自己の内側から湧き上がるものを抑え切れないフィルは、ともすれば苛立って、ヴァンカに当たってしまう。
 そんなある日、フィルは美貌の女性カミーユ・ダルレーと出会う。世故に長けたコケティッシュな魅力を持つダルレー夫人は、フィルの若さと美しさに目を止め、ひと夏のアヴァンチュールの相手として彼を誘う。純情なフィルは、この誘惑を拒むことができず、彼女の許へ通い詰め、連夜のように肉体を重ねる。
 性的な欲望と好奇心は満たされたものの、フィルはヴァンカへの罪悪感に苛まれ、深く悩むようになる。しかし、ダルレー夫人にとって自分が玩具に過ぎないことを知っても、彼はなかなか未練を断ち切ることができなかった。
 そして、夏の終わり。ダルレー夫人は去り、ほっとしたのも束の間、フィルは、ヴァンカが自分とダルレー夫人とのことに気づいていたことを知る。強い言葉でなじるヴァンカに、なすすべもなく俯くフィル。そして二人は・・・。


 ストーリーとしては、ありがちなもので、特に目新しいところはありません。「愛」というテーマも、現代の小説ではありふれています。しかしこの作品には、他の作品にはない、優れたものがあります。
 一つ目は、リアルで美しく、色彩感にあふれた風景描写です。コレットは、英仏海峡に面した海辺の小さな町、ロズヴァンに別荘を持っており、ここで見聞きしたものが描写をする上で役立っていることは、紛れもありません。
 けれども、その写実的でありながら幻想的な魅力を持った描写力は、彼女だけのものです。しかもその描写を、彼女は心理描写のツールとしても使っており、それがこの物語に、官能的でありながら、大らかな雰囲気を与えています。コレットの文学の特徴は、正にここにあると言えましょう。
 二つ目は、思春期の少女の複雑な心理を、余すところなくリアルに描き出していることです。うつろいやすい気分。秘めた想いと裏腹の強い態度。年上の女性に対する敵意とライバル心。押し殺した怒りと悩み。愛を交わすことへの怯え。そして、愛する人と結ばれた後の、別人のような振る舞い。まさに、女性ならではの筆致で、コレットはそれらを鮮やかに描き出していきます。それは、時に矛盾に満ち、極めて感覚的・情緒的なものではありますが、自由奔放に振舞うヴァンカには、同性である女性の共感を呼ぶところが多々あるのでしょう。コレットの読者の大多数は女性ですが、それもなるほどと頷けます。
 この二つの特徴により、この作品は代表的なフランス文学として、今でも版を重ねているのです。風景描写と少女の心理描写。これだけでも、私はこの作品を読む価値があると思います。

 しかし、この作品には、大きな欠点があります。それは、男性の読者なら、一読してすぐに気づくものであり、ハーレクインやレディコミなどでも、あまりにしばしば見られるものです。
 それは、少年フィルの心理描写にリアリティがないということです。
 この物語の中に出てくるフィルは、ダルレー夫人と肉体関係になる前から、常にヴァンカに対して「腰が引けて」います。彼女の前では反応も行動も鈍く、えびの血を見ることすら怖がり、そのくせ見栄っ張りでわがままで、想像だけをたくましくしているといった状況。そして、夫人とセックスをしても、快感より先にヴァンカに対する罪悪感を感じ、彼女にそれがバレないかと、ひたすらおずおずしています。一体、こんな『少年』が、100人中何人いるでしょうか。1人いれば良い方だと、私は思います。
 女性の方は、子供の頃、男の子にスカートめくりをされたり、髪の毛を引っ張られたりしたことはないでしょうか。あるいは、体育を見学している際、男の子にからかわれたことはないでしょうか。
 それが思春期の男の子です。
 もうひとつ。女性の身体を知った少年は、大抵がある種の『自信』を持ちます。それは、男を知った少女の比ではありません。ヴァンカに対しても、フィルは当然そうなるはずですし、相手に対してその『優位』を認めるよう求めるでしょう。そしてそれを鼻持ちならないものと感じ、許せないと思えば、ヴァンカはフィルと別れることになりますし、逆にフィルを取り戻したいと思ったら、それなりの反応をするでしょう。
 ところが、ここに出てくるフィルは、浮気を見つかった中年のダメ亭主のようです。ひたすら見当違いのことを悩み、ヴァンカの顔色を伺ってビクビクしています。そして、最後に彼女が彼を受け入れても、なお自信喪失して落ち込むのです。
 はっきり言って、こんな男は滅多にいません。十八禁ギャルゲーでは、男性の都合の良い女の子ばかりが揃えられていますが、これはその逆です。

 これは、作者コレットの男性体験にも、大きな原因があると思われます。
 父親ジュールに商才がなく、妻の財産をたちまち費消してしまい、コレットが17歳の時に、一家が破産してしまったこと。彼女自身、3度の結婚をしているものの、最初の夫・アンリとも2番目の夫・ジュヴネル男爵とも浮気が原因で別れていること。これらが、彼女の男性観に多大な影響を与えたことは否めません。
 50歳になるレアが、17歳の少年をジゴロとして愛する「シェリー」。レアから離れ、結婚したものの、レアとの肉欲に明け暮れる日々が忘れられず、破滅していくシェリーを描いた「シェリーの最後」。タイピストに浮気する夫に苦悩しながらも、異常な妻妾同居生活を受け入れる人妻ファニーの心理を描いた「第二の女」。夫婦生活に満たされない妻カミーユが、夫の可愛がる牝猫に嫉妬し、虐待することから、夫婦間の溝がさらに深まる「牝猫」。妻アリスの昔の恋人からのラブレターを見つけ、苦悩した挙句、自殺してしまう夫ミッシェルを描いた「言い合い」。
 彼女の作品の多くには、彼女と破綻した結婚生活の影が色濃く投影されており、登場する男性キャラクターにも、その影響が如実に表れています。

 この作品は、女性が読んで共感を感じ、満足感を得られるという点では、ハーレクインロマンスやシルエットロマンスに似たものであると言えましょう。男性が読んでも、恐らく面白さを感じられないのではないでしょうか。
 以上の理由から、私はこの作品を、女性限定でお勧めしたいと思います。

草の戸も住替る代ぞひなの家 アリアドネ・アーカイブスより

草の戸も住替る代ぞひなの家

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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。
 
 芭蕉の、奥の細道には様々な動機がある。穿った意見のひとつは、当時、俳諧と云う技芸は依然として上方に中心と伝統があり、江戸文化のある意味での創設者でもあり象徴的人物でもあった松尾芭蕉が、江戸が江戸であることの由縁を全国に知らしめるための、キャンペーン活動でもあったと云うものである。実際にドン・キホーテよろしく曽良を従えた芭蕉が赴く、奥州と日本海の津々浦々を練り歩きながら開催される、大名行列を彷彿とさせる句会、盛大にして豪華な歓迎の催しと宴に関する記述は、戦後天皇の地方巡幸を思わせながら、執政官の地方行脚の叙勲の儀式であり、もっと言えばカトリシズムにおける聖餐の典礼の等価性をこそ偲ばせるものであり、凡そ、俳諧の美学、侘びや寂び、と云った貧乏人の美学とは次元を異にしていただろう。それに当時は、老人になるとは、現代の若者中心の一元的な文化観とは異なって、老人ぶること、老成のスタイルを若くして身に着けることがダンディの証であったのかもしれない。松尾芭蕉は、ファッションとしてのダンディズムを諸国行脚を通じて見せつけたのである。だから、奥の細道は侘び寂びを装って、いっけん都を離れて鄙(ひな)に行くと見せながら、最終的な到着地点はめぐり廻って、彼が己の権威を最も見せつけたかった場所、 ――京、浪速の上方でなければならなかったのだろう。芭蕉、反転して南下せりの報は、かっての木曽義仲や奥州北畠顕家の一歩一歩と迫ってくる軍勢を、尾張を経て近江路の志賀の唐崎をめがけて北上する行程はかっての壬申の乱時の大海人皇子を懐古的に回想するものを,たんなる諧謔としてではあるが、往還する日本歴史の事象を脳裏に去来させていたのではないのか。松尾芭蕉とは気概としては武人なのである。
 奥の細道は、個人的な事業と云うよりは、江戸俳諧あるいは芭蕉宗門の総檀家を挙げての大デモンストレーションなのであった。武蔵野の道のなお奥つ方の津々浦々、山村僻地にありながら同時に当時日本の最先端の文化にも触れると云う気持ちは一個の気概として地方の名士や有徳人たちの虚栄心を満足させたに違いない。もちろん芭蕉俳諧とはこれだけのものではないだろうけれども、奥の細道がなまぐさき書物であることは当時に於いても天下の公然の秘密であったのだろう。生臭いだけでなくそれが野暮と野卑の一歩手前で反転する、裏地様の美しさこそ江戸前というようなものでもあったのだろう。千利休が欠けた茶碗や歪んだ茶碗に独特の美を見出したように、王朝の美を脱色させて透けた裏地を透かして現実と非現実を見ると云うアクロバットのようなひねこびた換骨奪胎、ある種の技術主義と倒錯性においてこそ上方とは異なった江戸俳諧の一期の美を、一期の画期として愚かにも誇らしく宣揚したかったのであろう。
 
 
 芭蕉が長年住み慣れた墨田の畔の住居を退いて旅に出たのはいまごろのことなのだろうか、旧暦で記されているの実際はでもう少し後と云うことになるのだろう。
 それにしても、住み替わる代ぞひなの家、とは良く詠んだものである。
 もうかなり昔、伊賀の上野に芭蕉の生家を訪ねた折にそのほの暗き小さき家に射す小さな土間の温もりに言い知れぬ感慨を抱いたものであった。芭蕉の故郷に対する思いは並々ならぬものがあって、生涯独身を通した彼には故郷(ふるさとの鄙)もまた雛(ひな)の家もまた、この世では彼には願っても決して恵み与えられないもの、ふたつ、であった。この句には雛と鄙が響きあっていて譬えようもなく美しい。美しいと云うよりも、こころが赤く朱に染まって痛くなるようなしみじみとした名句であると思う。
 
草の戸も住替る代ぞひなの家

映画”おくりびと”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
米国アカデミー賞受賞以来全国でも有名になった名画の全国無料放映の一環である。全国津々浦々あらゆる公共施設を利用して上映されている。公民館は狭いので100名程度、昔の講堂であっていた映写会を思い出した。

映画自体は分かりやすいので特に付け加えることはない。”死”を別枠として阻害する現代社会における、納棺師という仕事を通じての問題提起である。死という、死者を送る人間の本義を忘れ去ったかに見える様式への啓蒙的な意義がある。現代社会からは忘れ去られたかに見える人間的存在の様式美と、元失業したチェロ奏者というヒーローの音楽――高名な久石穣の音楽の組み合わせ、脇を固めるベテラン陣がそれぞれに素晴らしい演技を披露していて、エンターティメントとしての最近の日本映画の水準を示すものだろう。ただし、映画全体としては長く、後半の繰り返しはダメ押し点の印象が強い。

俳優陣は、山崎努をはじめ、いずれも劣らぬ名演技をみせているが、特に私は余貴美子の存在感に注目した。この映画の背景には核家族の崩壊というもう一つのデーマを見えぬ背景として点滅させている。

ただ日本人の死生観というものを考える場合には、様式と形ににこだわることは十分に許容しつつも、私には別の感慨があります。以前映画”ポー川のひかり”に関するほかのブログへの私の書き込みを、次のぼろくにて紹介いたします。人の魂をみとるのは人間の涙以上のものがこの世に存在するか、という問題ですね。勿論キリスト教は古来”ピエタ”という形で扱ってきておりますが、マリア信仰は宗派によっては主題的に扱われることはないそうですね。


日時:2009年9月6日 土曜日 午前10時~
場所:福岡市早良区公民館


作品解説・紹介 - おくりびと goo映画より
リンクするには

所属する東京のオーケストラが解散し職を失ったチェロ奏者の大悟は演奏家を続けることを諦め、妻の美香を連れて故郷の山形に戻ってくる。早速、求人広告で見つけたNKエージェントに面接に出かけ、その場で採用になるが、それは遺体を棺に納める納棺師という仕事だった。戸惑いながらも社長の佐々木に指導を受け、新人納棺師として働き始める大悟だったが、美香には冠婚葬祭関係の仕事に就いたとしか告げられずにいた。

納棺師とはなんと素敵な仕事だろう。主演の本木雅弘山崎努のスムーズな手の動きに思わず見とれてしまう。それは美しく厳かな旅立ちの儀式にふさわしい所作なのだ。かつて旅先で遭遇した納棺の儀式に感銘を受けた本木の発案だというユニークな題材を持つ本作。『病院へ行こう』『バッテリー』などユーモアを交えつつ感動を生む人間ドラマが得意な滝田洋二郎監督がメガホンをとり、放送作家小山薫堂が初めての映画脚本を手がけている。誰もがいつかは迎える死と、その日が来るまで笑って泣いて生きる人々の姿を、夢や仕事への誇り、あるいは親子、夫婦の絆を浮かび上がらせて描いた本作は誰の心にも深く残るに違いない。


<スタッフ>

監督
滝田洋二郎

脚本
小山薫堂

音楽
久石譲

<キャスト>

出演
本木雅弘
広末涼子
余貴美子
吉行和子
笹野高史
山崎努

メルヴィル監督・映画”いぬ”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
モノクロの映像美と、表情を押し殺した即物性が同時期のヌーベル・ヴァーグの原点と言われる世評を納得させる作品である。ただし、登場人物も多く、光と影を多用するモノクロ画面は、急激な筋の展開についていくのは困難である。一度映像美とベルモンドのストイックな魅力を堪能したのち、下記のようなある程度の知識を付けて、二度、三度と見直さないと理解できない映画の造りになっている。その手間を惜しむかどうかで評価が分かれる作品であろう。それでも、ヌーヴェル・ヴァーグの作品には、二度、三度見ないと分からない映画があるので、特例ではないのかもしれない。


movie wolkersより

映画 "いぬ"



[原題]Le Doulos
[製作国]フランス
[製作年]1963
[配給]東和


スタッフ
監督: Jean Pierre Melville ジャン・ピエール・メルヴィル
原作: Pierre Lesou ピエール・ルズー
脚色: Jean Pierre Melville ジャン・ピエール・メルヴィル
撮影: Nicolas Hayer ニコラ・エイエ
音楽: Paul Misraki ポール・ミスラキ
美術: Daniel Gueret 


キャスト(役名)
Jean Paul Belmondo ジャン・ポール・ベルモンド (Silien)
Serge Reggiani セルジュ・レジアニ (Maurice)
Jean Desailly ジャン・ドザイ (Clain)
Michel Piccoli ミシェル・ピッコリ (Nuttheccio)
Monique Hennessy モニーク・エネシー (Th\8f\a1\a5r\8f\a1\b8se)
Fabienne Dali フェビエンヌ・ダリ (Fabienne)
Carl Studer カール・ステューダー (Kern)
Aime de March  (Jean)
Rene Lefevre ルネ・ルフェーヴル (Gilbert)
Jacques de Leon  (Armand)
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解説
新鋭推理作家ピエール・ルズーの同名の小説からわが国には初めてながら、名匠のジャン・ピエール・メルヴィルが脚色、演出もした暗黒もの。撮影は、ニコラ・エイエ、音楽はポール・ミスラキが担当した。出演者は「大盗賊」のジャン・ポール・ベルモンド。他にセルジュ・レジアニ、ジャン・ドザイ、ミシェル・ピッコリ、新人女優のフェビエンヌ・ダリ、モニーク・エネシーら。


ストーリー ※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
モーリス(セルジュ・レジアニ)は出所以来四月、服役中に妻を失ったが今は新しい女テレーズ(モニーク・エネシー)もでき、次の仕事決行の日も近づいたある日、ジルベール(ルネ・ルフェーヴル)を訪ね、妻を殺した男と確信して射殺し、彼の宝石店強盗の宝石類を奪い、近くの空地にそれを埋めた。仕事の日、親友のシリアン(ジャン・ポール・ベルモンド)の用意してくれた穿孔器を持ってレミーと二人である街の大邸宅に押入った。だが、警官隊の包囲作戦をうけ、レミーは殺され、彼も一弾をうけた。シリアンがテレーズから暴力で仕事先を聞きだし密告したのだ。モーリスはシリアンがいぬ(情報屋)だという噂を信じざるを得なかった。そしてテレーズが崖から自動車で墜落死をとげたと知り、自分を狙う黒い手のあることに愕然とした。彼はクラン警部(ジャン・ドザイ)に逮捕され、シリアンの裏切りを信じ、復讐を誓って入獄した。一方シリアンは、例の広場から宝石と札束を掘り出し、ジルベールの仲間ヌテシオ(ミシェル・ピッコリ)の経営するナイトクラブへ。そこで、かつて彼と関係がありいまはヌテシオの情婦になったフェビアンヌ(フェビエンヌ・ダリ)とヨリを戻した。彼は女にジルベール殺しはヌテシオだと決めつけた。確かに、犯行直後に車で乗りつけていたのは彼女とジルベール一味だった。そしてヌテシオとその部下アルマンを相打ちの形にし、宝石類を金庫に入れ、分け前のもつれで殺しあったようにみせかけた。いぬは何とテレーズだった。シリアンはテレーズから強盗現場を聞き出し倒れていたモーリスを救ったのだった。さらにテレーズを殺し、ヌテシオらにモーリスの罪を着せるための細工であった。モーリスは彼の友情を知り、自分を恥じた。獄中で憎悪のあまり同房の男にシリアンの家で彼を殺すことを頼んでいた。知らずにシリアンは帰ってゆく。知らせるためにモーリスは雨のハイウェイをシリアンの彼を追い、迂闊にも追い越し、間違って自分が射たれた。一足遅れて帰ってきたシリアンも、相打ちで空しく倒れた。

ロジェ・ヴァディム映画”危険な関係”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
この映画は二つの観点から興味を持った。
一つは、ジャンヌ・モローの映画であること。
二つは、ロジェ・ヴァデイムの監督作品であること。

モローの悪女ぶり、ということからすれば、”エヴァの匂い”からすれば初々しい?という感じがする。十八番になった、例の凍るような作り笑いがまだ板についていない。ドラマとしては勧善懲悪なのだろうけれども、顔に火傷を負っても悪びれないところがよい。また悪役に徹しきれない優柔不断さという意味でのジェラール・フィリップの起用は成功していると思う。

ロジェ・ヴァディムに関して言うならば、後年の――”悪徳の栄え”や”戦士の休息”のような、華麗な映像美には程遠い、初心で作ったという意味ではこれも初々しい感じである。

映画で一工夫されていると感じたのは、貞淑な人妻という役柄でマリアンネ夫人を演じたアネット・ヴァディム。映画ではデンマーク生まれの素朴な女性として、あえて言えば都会的センスの対極にある飾らぬ人格として描かれているのが良い。ヴァルモンが今までに経験しなかった女性のタイプとして、恋の手練手管と本心とを混同していく過程が映画では説得性をもって描かれている。たぶん純心で貞淑という設定だけでは、なぜヴァルモンが本物の恋に落ちていくのかを、現代のドラマとして説得的に描くのは困難であったろう。ヴァディムは自分自身の私生活上のモチーフ――アネット・ヴァディムは新婚ほやほやの外国人妻であったらしい――をうまく映画にとりこんでいるといえよう。

ヴァディムは、映画の最終シーンに新妻のために美しいシーンを用意した。ジュリエットの怒りによる一通の電報によってヴァルモンとの仲を裂かれたマリアンネ夫人が精神の異常をきたして、ヴァルモンとの未来の生活を夢のように語り、娘の気遣って訪ねてきた母親が娘の異常に直面する場面である。マリアンネの哀れさと、ジュリエットの凍ったような不遜さをダブルイメージとして重ねてこの映画は終わる。


<あらすじ>
外交官ヴァルモン夫妻と言えばパリの上流社会でも最も洗練されたカップルである。このカップルはまことに不思議な夫婦であった。妻ジュリエット(ジャンヌ・モロー)は、多くの男と関係をしながらも、夫ヴァルモン(ジェラール・フィリップ)を誰よりも愛していたし、夫ヴァルモンとて次々に女を変えながらも、一番愛しているのはジュリエットであった。しかも二人はお互のアヴァンチュールを報告し合うばかりか、その始末まで共謀でやっているのだ。

パーティの夜、ジュリエットは別れようと考えていた愛人ジェリ・コート(ニコラス・ヴォーゲル)が若いセシル(ジャンヌ・ヴァレリー)と婚約したのを知った。一寸した復讐心から、彼女は夫ヴァルモンにセシルの純潔を踏みにじらせてからコートに渡してやろうとする。ヴァルモンはセシルがクリスマスを過ごしているメジューヴでセシルを難なく物にした。セシルはまた、金持のコートと婚約しながら、真面目なダンスニ(ジャン・ルイ・トランティニャン)と恋をささやいているチャッカリ娘でもあった。

ヴァルモンはセシルを簡単に手に入れたが、メジェーヴで会ったマリアンヌ夫人(アネット・ヴァディム)に心を奪われてしまった。あらゆる手をつくして彼はマリアンヌに迫ったが、彼女は難攻不落であった。ヴァルモンの彼女に対する気持はとうとう本物の恋になってしまった。遂にマリアンヌもヴァルモンの情熱に屈した。夫のそんな変化にジュリエットはいささか驚いた。そして策をめぐらし無理矢理二人の仲を割いた。だが二人の仲にはしこりが残り、ジュリエットは夫への仕返しにダンスニを情人にしようとした。

ところがヴァルモンとセシルの仲を知らされたダンスニは、怒りのあまりヴァルモンを殺してしまった。警察が事情をしらべる前に、ジュリエットは二人の間に交された情事の手紙を焼きすてようとしたが、あやまって顔にやけどをしてしまう。スキャンダルはひろまった。つめかけた新聞記者を前にして、だがジュリエットは無惨に醜くなった顔を、昂然と上げていた。


フランス映画”危険な関係”1959年

キャスト(役名)
Gerard Philipe ジェラール・フィリップ (Valmont)
Jeanne Moreau ジャンヌ・モロー (Juliette Valmont)
Annette Vadim アネット・ヴァディム (Marianne Tourvel)
Jeanne Valerie ジャンヌ・ヴァレリー (Cecile Volange)
Jean Louis Trintignant ジャン・ルイ・トランティニャン (Danceny)
Simone Renant シモーヌ・ルナン (Mrs. Volange)
Nicolas Vogel ニコラス・ヴォーゲル (Jerry Court)
Madeleine Lambert (Mrs. Rosemonde)

スタッフ
監督
Roger Vadim ロジェ・ヴァディム

原作
Pierre Choderlos de Laclos ピエール・コデルロス・ド・ラクロ

脚色
Roger Vailland ロジェ・ヴァイヤン
Roger Vadim ロジェ・ヴァディム

台詞
Roger Vailland ロジェ・ヴァイヤン

撮影
Marcel Grignon マルセル・グリニョン

音楽
Thelonious Monk セロニアス・モンク
Barney Wilen バルネ・ウィラン
Art Blakey's Jazz Messengers アート・ブレイキージャズ・メッセンジャース
Lee Morgan

アメリカ映画"死刑執行人もまた死す”1943年をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
 ”死刑執行人”と呼ばれたナチの実在の長官、ラインハルト・ハイドリッヒが1942年にチェコ愛国者に暗殺され、その見せしめのために、数百人のプラハ市民を、暗殺者が自首して出てくるまで、無作為に処刑したという史実に基づいている。前半は、第二次大戦かのナチによる恐怖政治が何であったかを映像で見せている。映画の前半は、国民の英雄でもある暗殺者を守り通すのか、それとも無辜のプラハ市民を救うために自首して出るか、出させるか、という登場人物たちの葛藤を通して描かれる。亡命政府に協力するヒロインが、単純な愛国者として描かれていないことが共感を持てる。
 後半は、一転して、亡命政府側の二重スパイとナチの有能な警部をまんまと罠にかけて、”暗殺者”に仕立ててしまう、スリリングな”一石二鳥”案が功を奏して、ナチスプラハ市民への報復措置は失敗に帰する。ナチスは失敗を認めたあとも自己の威信を保つためにこの結末をこれ以上蒸し返さないことで結果的に敗北を認めることになる。映像は、事件収束後も処刑者リストとして見せしめのために拘置していた人質数百名を放免しうるのではなく銃殺刑にしてしまう。
 予想がつかない筋の展開にいつしか巻き込まれてしまうのだが、映画のできとしては、ナチの風景を描いた前半が良い。後半もスリラーとしては楽しいが、前半のナチの不気味さを描いた部分の恐怖感には及ばない。

<スタッフ>
監督:フリッツ・ラング
原案:フリッツ・ラングベルトルト・ブレヒト
脚本:    〃         〃
   ジョン・ウェスリー
撮影:ジェイムズ・ウォン・ホー
音楽:ハンス・アイスラー
美術:ウィリアム・ダーリング

<キャスト>
ブライアン・トンレヴィ:ウォルター・ブレナン
アンナ・リージーン・ロックハート
アレクサンダー・グラナッハ:デニス・キオ―フ
ハンス・フォン・トワルトフスキー:ジョナサン・ヘイル

1943年 アメリカ作品