アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

3月のベスト10 6位から10位まで

3月のベスト10 6位から10位まで

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 六位には日本近代文学のビッグネイム達を論じたものが入りました。喜ばしいことです。

 八位に漱石と鷗外を論じたもの、九位にはゲーテの問題作を論じたもの、十位には秦恒平のものが入りました。これは日本キリシタン近世史のなかの掉尾を飾る殉教を描いたものです。主な舞台は東京の茗荷谷、わたしの好きな散歩道のひとつです。

 

日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(上)――耽美と唯美主義――谷崎(2016・12)アーカイ | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言葉の感受性・上 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

ゲーテ『親和力』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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サレジオ通り 目黒碑文谷のあたり――秦恒平『親指のマリア』の思い出 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

3月のベスト20

3月のベスト20

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 今回は年度末の意味もあって、不定期のベスト20を紹介しております。

 十二位に、ヘンリー・ジェイムズの難解な小説作法論が入っております。ジェイムズの文学、もっと読まれて欲しいですし、論じて欲しいです。

 十七位に須賀敦子を論じたものが入りました。嬉しいです。

 十九位に、遠藤周作を論じたもの、これはベスト10にも紹介している秦恒平のものと一対をなすものです。秦恒平のものはある程度の史実を踏まえてーー実際に昨今のマンション開発の現場から謎の遺骨三体が発掘されたと言う因縁のニュースがあったのですが----遠藤周作のものは、彼固有の作家的空想の自由度の賜物と言う違いはあるにしても。

 二十位にはヴァージニア・ウルフを論じたものが入りました。

 

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揃洋子の”ラボエーム”――なぜ 私の名前は”ミミ”なのか。(2012/1 ) アリアドネの部屋ア | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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ヘンリー・ジェイムズの小説作法(2013/5) | アリアドネの部屋 (ameblo.jp

 

 

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日本と欧米の自然観の違いについて――富山和子”日本の米”其のほかを読んで(2011/7) アーカ | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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檀一雄を求めて・7 能古島・(上) | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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浅草寺 210325-1 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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有島武郎 『一ふさのぶどう』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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回想の須賀敦子・哀悼〜須賀敦子さんが亡くなってはや二十三年の月日が流れていたのでした〜 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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外出自粛厳戒態勢下の”かわせみの里” | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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回想の遠藤周作”沈黙”と60年代 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

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ヴァージニア・ウルフ『波』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

様式美としての文法――ヴィスコンティ”夏の嵐”について アリアドネ・アーカイブスより

 
わたしはまだロッセリーニの映画を一本も見たことがないので所詮はネオリアリズモという運動を云々する資格はないだろう。例えばピエトロ・ジェルミの”鉄道員”やデ・シーカの”自転車泥棒””二人の女”、”終着駅”やミケランジェロ・アントニオー二の初期の”さすらい”などと比べて同列にあると論じることはどうだろうか。

この映画は後年の”山猫”を思わせる、オペラの舞台や貴族の広大な館の風景や、とりわけヒロインが身につける19世紀貴族社会の華麗な衣装を無視してはあり得ない。ネオリアリズモが人間そのものを描こうとしたのに対して、”夏の嵐”1954年はヒーローやヒロインを取りまく儀式や衣装という属性を描くことで、近代人の個性であるよりは、広範な歴史的典型性を描いた。

”夏の嵐”の魅力は、アリダ・ヴァリ演ずる伯爵夫人の身につける衣裳のくすんだ色合いと、石畳の道を引きずる裳の幾重にも重なり合う残映にある。伯爵夫人の度を越した激越な恋を理解するためには当時のイタリア貴族の結婚の様式、つまり結婚とは家紋同士の釣り合いのためになされるのであり、年齢差がある場合には年下の夫人は若い愛人を持つことが黙認された、あるいは高貴の貴婦人に愛を奉げるのは貴族的エレガンス、つまり風流を解することであり貴族社会の若き子弟の性教育の側面もあったという。レディファーストとか騎士的なプラトニズムとは案外この辺に起源があるとする穿った見方もある。

この映画の中で素晴らしいのは、敵性国の二人が彷徨う夜のヴェネツィアの風景であろう。青年将校は大した技巧も弄せず四日目に伯爵夫人は陥落してしまう。一旦恋に身を落としてからの伯爵夫人の行動が凄い。如何なる外聞や世俗的因習的な関係を捨てて、過去はなく現在と未来のみがあると宣言する。より正確にはその日から伯爵夫人には現在進行形の時制しか存在しなくなる。それが恋なのだと夫人は言う。

恋に一直線に突き進むとき初期ヴィスコンティ的人物はほとんど逡巡しない。倫理的な迷いや反省をほとんどしない。恋とはオペラの舞台の中の登場人物のように近代人としての苦悩や性格は不要なのだ。もし近代的リアリズムの手法で描いていたら伯爵夫人の人間象の中から画一化された人物像以外を引き出してくること以外は困難であっただろう。

伯爵夫人の激越なそれでいて様式化された行動を、近代のタイトスカートやジーンズで演じるのは不可能なのだ。儀式じみた日々の所作や衣装、広大な貴族の館の幾重にも重なる部屋の連なりや運河と壁で縁取られたヴェネツィアの風景を通してこそ、個人を超えた歴史的典型性としての個性を描きえることを、貴族の末裔であった若きヴィスコンティであればこそ、確信したに違いない。

物語の結末で全てを奉げたつもりの恋人に無残にも裏切られ、自分たちは物語の世界の登場人物ではないのだ、自分で勝手に描いた幻想に恋し、裏切られていくという意味で自業自得なのだという元オーストリア青年将校の罵声を背中に受けて伯爵夫人が退場する場面があるが、これは青年の方が間違っているのだ。かれは封建的身分制が崩壊する歴史的変動期における個々の人間の没落を、あえて言えば近代的個人の個性的悲劇を見ているにすぎなかった。しかし伯爵夫人が演じたものは、間違いなく歴史の転換期における悲劇性をその典型性において”生きていた”のである。

しかしこの一見平板的に描かれているかにみえるオーストリア青年将校も本当はただものではない。封建社会においては身分制度を超越する代表的な方法に二つあった。一つは僧籍に就くことでありもう一つは軍隊組織に身をゆだねることであった。今日においても後者が一部の者に気持ちの良い回顧の対象となるのは身分制を超える経験を個人に与え、平等主義の理念を束の間ではあれ、教えたからである。

青年将校には最初から、この物語の発端が愛国的なヴェネツィア貴族との決闘の予告で開始されたように身分制に対する庶民としての憎しみがあったと思う。伯爵夫人を恋の虜にし、女を征服する手練手管は、一種のマルクス主義階級闘争である。物語の最後にこの元青年将校が投げつける罵声は貴族社会そのもの終焉に向けられた19世紀的社会の挑発ですらある。

しかしこの元青年将校の行動を最初から刹那主義的にしているのは彼自身もまた所詮は旧体制の社会的環境を抜け出すことができず、新時代に適応して生きる気概をもった人物としては描かれてはいない点だろう。青年は絶えず自分の足元を洗う歴史の消失感に晒されていることを感じる。彼もまた違った意味で現在以外の時間を失う。恋が収斂する過程で彼は世界そのものが失われていくようだ、と表現する。彼が属したパプスブルグ王家はヨーロッパのp覇権を争う帝国主義の鬩ぎ合いの中で足もとから崩壊しかかっていたのである。

この青年将校は恋の絶頂期にあってさえ老人のような冷めた恋愛観を披露する。すなわち恋が終わって長い時間が経って回顧の対象となった時、不思議にも光を求めて夏の夜の虫が窓辺に突き当たる羽音など今となってはどうでもよいことどもや、たまさかの恋人の仕草であるとか髪を解く癖とかが妙に鮮明に思い出されてくるものだと。これはすでに末醐の目なのである、パプスブルグ家を覆っていた、いや旧世界に生きる貴族体制全体の厭世的な終末観の表出なのである。



<あらすじ>  goo映画より

1866年5月のある夜、水の都ヴェニスフェニーチェ劇場ではオペラ「吟遊詩人」が上演されていた。その時、一階席でオーストリヤ占領軍の若い将校フランツ・マラー(ファリー・グレンジャー)中尉と反占領軍運動の指導者の一人、ロベルト・ウッソーニ侯爵の間に口論が起った。そのあげくロベルトはフランツに決闘を挑んだ。丁度、夫とともに観劇中であったリヴィア・セルピエーリ(アリダ・ヴァリ)伯爵夫人は従兄ロベルトを助けようとしてフランツに近づいて決闘を思い止まらせようとした。しかし、その夜、ロベルトはオーストリヤ軍に逮捕され、一年の流刑に処せられてしまった。そしてリヴィアが再びフランツに会った時には、彼女はこの青年将校の魅力の虜になってしまっていた。リヴィアは五十男のセルピエーリ伯爵と愛情もなく結婚したのであるが、それ迄は貞淑な妻であった。だがフランツを知ってからは盲目的な激しい情熱にとらわれ遂に彼に身も心も捧げてしまった。一方オーストリヤとの間には再び戦争が起った。セルピエーリ伯はヴェニスを離れてアルデーノの別荘に移ることになった。リヴィアは偶然、越境してヴェニスの同志に軍資金を渡しに来たロベルトに会った。ロベルトは彼女に金を渡しアルデーノの別荘で同志に渡してくれと頼んだ。ある夜別荘の彼女のもとにフランツが現われた。彼女は再び男に身を投げ出した。フランツは軍籍を抜けるのに大金がいることを話した。戦争によって男を失うことを怖れた彼女は預った金迄も彼に渡してしまった。クストーザ丘陵の戦いで伊軍は敗れロベルトも重傷を負った。敗戦を聞いたリヴィアは墺軍の占領下のヴェロナにフランツを求めて馬車を走らせた。だが一時の浮気心で彼女を相手にしたにすぎないフランツは彼女の来訪を喜ばず数々の悔言を浴せた揚句ロベルトを軍に逮捕させたのは自分だと叫んだ。絶望のリヴィアは占領軍司令部に行くとフランツが自分から取り上げた金で軍医を買収し、病気と偽り除隊に成功したことを彼女に感謝した手紙を司令官に示した。フランツは即刻逮捕され、銃殺された。

キャスト・スタッフ - 夏の嵐(1954)
リンクするには
キャスト(役名)
Alida Valli アリダ・ヴァリ (Countess Livia Serpieri)
Farley Granger ファーリー・グレンジャー (Lieutenant Franz Mahler)
Massimo Girotti マッシモ・ジロッティMarquis Roberto Ussoni)
Heinz Moog ハインツ・モーグ (Count Serpieri)
Rina Morelli リナ・モレリ (Laura maiden)
Marcella Mariani (Girl Friend of Franz)
Christian Marquand クリスチャン・マルカン (Bohemian Official
Tonio Selwart (Colonel Kleist)
Cristoforo De Hartungen (Commander in Venice)
スタッフ
監督
Luchino Visconti ルキノ・ヴィスコンティ
原作
Camillo Boito カミロ・ボイト
脚本
Luchino Visconti ルキノ・ヴィスコンティ
Suso Cecchi D'Amico スーゾ・チェッキ・ダミーコ
脚色
Suso Cecchi D'Amico スーゾ・チェッキ・ダミーコ
Luchino Visconti ルキノ・ヴィスコンティ
Carlo Arianello
Giorgio Passani
Giorgio Prosperi ジョルジョ・プロスペリ
台詞
Tennessee Williams テネシー・ウィリアムズ
Paul Bowls ポール・ボウルズ
撮影
G. R. Aldo G・R・アルド
Robert Krasker ロバート・クラスカー
指揮
Franco Ferrara フランコ・フェルラーラ

40年目のゴダール アリアドネ・アーカイブスより

40年目のゴダール

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最初に、以下のあらすじを読んでいただきたい。

<あらすじ> 蟲伊国屋書店版 カバー解説より

”エレナ・トルラート・ファブリー二伯爵令嬢は国際的な大企業グループの実質的な支配者だ。彼女の周囲にはいつも共同経営者や大株主たちの取り巻きがいる。・・・(中略)・・・ある日、マゼラーティ・スパイダー(車)を自ら運転し外出した彼女は男を引きそうになる。ロジェ・レックスと名乗るその頼りげなげな男はエレナの屋敷に住みつく。彼女は彼を愛すが、それ以上に仕事に集中している。関係を悪化させた彼らはボートにの乗り二人きりで湖にでる。彼女は彼を溺れさせた・・・。ところが、ロジェの兄弟リサシャールと名乗るロジェと瓜二つの有能な男が現れ、エレナの事業や私生活に介入始めると、彼女はいやおうなしに変わっていく。やがて彼らはボートに乗り二人っきりで湖に出る・・・。”

ヴィスコンティの”郵便配達は二度ベルを鳴らす”のように、二度繰り返される。物語の結末は、湖上に出た二人は、今度は攻守を異にし、溺れかかった彼女を男が救う。やがて秋のおとづれを感じさせるスイス・レマン湖の風景描写とともに、別荘の部屋の電気が一つ一つ消されていて、客人たちも去る。この映画が世の解説者がいうように、愛と救済、死と再生を描いたものであるかどうかを言うのは困難である。

アラン・ドロンの主演への起用はヌーヴェル・バーグへの追憶だろう。ヒロインのエレナの命名は、ハリウッド映画”裸足の伯爵夫人”に由来するものであるという仮定を信用すれば、ハリウッド映画、あるいはグローバル化した多国籍企業の象徴であるということになろうか。そうすると二度起きた水難事故は、一度目はヌーヴェル・バーグが、二度目はグローバル企業の挫折という寓意となる。しかし、この寓意自身に大した意味があるとも思えない。

映画の中で多彩な登場人物たちは、通常の会話というものをしない。会話とモノローグと書物からの朗読が筋の信仰とは無関係に、同時に、字幕がスクリーンの端の三面に同時に現れる。たぶん、原語で見たと思われる初演当時のフランス人観客は、これを意味を失った音楽として聴くほかはなかったはずだ。

劇中の音楽もまた、たまたま場面を盛り上げるために用いられるバックグランドミュージックではなく、学音の”引用”であったはずだ。その、言葉の羅列の場合のように、ここの音楽の出典を知り、典拠を知らなければこの映画の完全な理解はあり得ないのかという気になるのだろうか。わたしはかろうじてダンテの”神曲”導入部のみを聴き分けることができた。

四十年目のゴダール!――”気違いピエロ”において物語的世界への決別を、そして”ヴェトナムを遠く離れて”において映像表現を超えて、認識としての芸術について語り、あの当時の私は感動した。芸術作品が如何にあるかではなく、芸術作品としての”美”が、まるでハムレットにおけるオフィーリアのように、悲劇性に先立って滅びの道を辿らなければならないという、あの時代認識の禍々しい終末論的な美学を、遠く遙かな残響として聴いた。歳月の隔たりは、感傷どころか、感慨というものさへ磨耗させてしまった。

あの時代の追憶に囚われ、いまだ表現性と物語性の解体を”現在進行形”において語るジャン=リュック・ゴダールとは誰か。現在進行形において語るとは、作家主体を映像的世界の外部にある種の特権性としては措定せず、即興性、ロケーション、物語的統一性の断片化、において語るということである。


ヌーヴェルヴァーグ
Nouvelle vague
監督 ジャン=リュック・ゴダール
製作総指揮 アラン・サルド
製作 サラ・フィルム
ペリフェリア
カナル・プリュス
ヴェガ・フィルム
テレヴィジオン・スイス・ロマンド
アンテーヌ2
フランス国立映画センター(CNC)
ソフィカス・アンヴェスティマージュ

脚本 ジャン=リュック・ゴダール
出演者 アラン・ドロン
音楽 パオロ・コンテ
デイヴィッド・ダーリング
ガブリエーレ・フェリ
パウル・ギーガー
パウルヒンデミット
ハインツ・ホリガー
ヴェルナー・ピルヒナー
ディノ・サルーシ
アルノルト・シェーンベルク
ジャン・シュヴァルツ
パティ・スミス
撮影監督 ウィリアム・リュプチャンスキー
編集 ジャン=リュック・ゴダール
配給 AMLF
広瀬プロダクション
公開 1990年5月23日
1990年11月15日
1991年11月11日
上映時間 90分
製作国 スイス / フランス
言語 フランス語
allcinema
キネマ旬報
IMDb

あさま山荘事件と遠藤周作”沈黙”について アリアドネ・アーカイブスより

 
蓮さん久しぶりですね。
九鬼の”いきの構造”を読み、映画”近松物語”の感想を書いています。蓮さんの言うとおり彼らは愛の殉教者でした。刑場に向かう二人の晴れやかな表情を捉えた溝口のカメラワークが冴えています。

さて、浅間山荘事件の意義は、所詮西欧の思想や形而上学は日本には根付かないとする丸山真男以降の我が国の知識人の射程をすり抜けるものがあります。
この時代のもう一つの反作用は三島事件であり、一般化された形では意外にも遠藤周作の”沈黙”に注目する必要があるのです。

丸山の普遍主義の対極性として登場した”沈黙”。日本の特殊性に立脚した60年代の思想――たとえば吉本隆明の大衆の原像論や、江藤淳漱石小林秀雄流のリアリズムを援用した生活者論等、当時の日本的ラジカリズムと対比するとよくわかるのです。

結論は、よくもマルク主主義に偽装したキリスト教が当時の青年たちをかくまでもたぶらかしたか、という事実なのです。この事件を防ぎえなかったことの中に、当時の日本的思潮の限界が露呈されているのです。

――蓮さんのブログの全文は次のとおりです。

連合赤軍が起こした、あさま山荘事件を始めとする数々の事件の内幕を、並ならぬ想像力、創造力を駆使して描ききった若松孝二という人に先ず敬意を表したい。この映画ではドキュメンタリーとフィクションが仕合せな結合を果たしている。
  あさま山荘での銃撃戦の場面は事件発生当時その外部からの実況をテレビで観ていて、山荘の内部はこうだったのかと、半分は確かめるような気持ちで比較的、冷静に観ることができたが、新聞、テレビのニュースでしか知らなかった、アジトでの仲間殺しの場面には衝撃を受けた。
  絶対的な劣勢の下、権力に追い詰められても、革命の夢を見続けるためには、仲間殺しが必要だったことを、若松孝二のメガホンが訴える。しかし、それは彼ら過激派と呼ばれる若者たちのアジテーションのような、ひとりよがりで、声高な問答無用の叫び声ではない。そのような若者の叫び声を潜り抜け、彼らの精神に想像力と創造力を持って迫って行き、彼らのひとりひとりの声なき声に耳を傾けた若松孝二自身が発する苦悩と哀しみに満ちた声だ。

  190分という長時間のこの映画を今回、二度観たが、ちっとも長いと感じさせられなかった。画面に釘付けにされ、身じろぎもしなかった。観ての衝撃が大きかったせいだろう。一度目、観た夜、この映画にまつわる夢まで観てしまった。
  この映画に出てくる連合赤軍の主なメンバーはぼくよりほんの少し年上。この、あさま山荘事件を頂点とする一連の事件はぼくにとっては同時代史なのだが、この映画を観るまでは記憶の彼方に葬り去ってしまっていた。
  どのように衝撃的な事件も、それに共鳴する要素、資質を自身が備えていない場合は、時間の流れとともに忘れ去ってしまうものらしい。
  若松孝二はこの映画で、連合赤軍事件がぼくにとって、本当は簡単に忘れ去ってしまってもよいものではなかったことを、今更ながら気付かせてくれたように思う。

  監督・製作・編集:若松孝二
  音楽:ジム・オルーク
  ナレーション:原田芳雄
  2008年3月封切り

ヴィスコンティ”郵便配達は二度ベルを鳴らす”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
北イタリアのポー川のほとりが舞台。無機的なモノクロ表現は同じポー川河口を舞台とした後年のミケランジェロ・アントニオーにの”さすらい”を思わせる。ポー川河口付近の荒涼とした風景はネオリアリズモの映像作家たちをひきつけるものがあるのだろうか。

物語はポー川河畔でトラットリア(田舎のドライブインのようなもの)を営む年齢差のある夫婦のところに転がり込んだ流れものとの参加関係。年老いた夫を交通事故に見せかけて殺害、保険金を得た二人は新天地を求めて・・・そして因果応報の苛烈な悲劇的結末!

映画は罪を犯した後の男の逡巡に多くの説明を費やすが、愛ゆえに殺人を犯す人妻ジョバンナ、それからジーのと行きずりの愛を交わす踊り子の可憐さが、さすがに後年のヴィスコンティを髣髴させた。

二人の愛が破たんするのには最初から理由がある。ジーノは定住性を持たない放浪型の人間、ジョバンナは定住型の人間。ラストで定住型の人間が放浪の旅に出るとき、本人にもお腹の子供にも死が訪れる。一方行きずりの愛を交わす町の踊り子と結ばれていたら、同じ放浪型同市違った展開があったのかも知れない。放浪性のモチーフを強調するために、ジーノに何かと世話を焼きたがる興行師との交流が、物語の展開と関係ないにもかかわらず、かなり丁寧に描かれている。電車の中で無賃乗車をとがめられたジーノを救った興行師とジーノの二人が仲良く並んで海を眺める場面と、最後に決裂する場面の直前に置かれた、ポー川河口で仲良く放浪性の意義について回顧的に会話する部分に注目していただきたい。この映画では大事なことは”二度”繰り返される。

物語の白眉は、保険金云々によるお互いの疑心暗鬼が生み出した愛憎の果てに、愛を失うのであればすべてはどうでもよくなるという、あらゆる価値観を放下して放心状態に陥るジョバンナの恋愛観である。愛ゆえの犯罪をいささかも――少なくとも”道徳”的な意味では最後まで後悔しない、という人間造形は
やはりヴィスコンティ固有のものだろうか。最後まで罪におののき愛というものに対して自信を持ち得ないジーノとは対照的である。それから、最下層の世界に生きざるを得ないゆえにこそ純真でありえた町の踊り子の造詣も秀逸であるといえる。ここでも愛をめぐって、殺人という行為をも辞さないほどの愛が執念深きものであるkとと、行きずりの愛という形裏町の一室に顕現した愛の無償性を描く、ここにおいても、”二度”が繰り返されている。この場面の美しさは、殺伐としたマクベス的世界に花開いた一輪の花を見るかのようである。

ジーノの愛は、動物的な愛欲から最後には真実の愛に気がつくに至る。警察への密告というお互いの疑心暗鬼の疑いが晴れたとき、ジョバンナはこのように言う。放浪型のジーノの愛ががやがては自分を離れていくことを理解していた、と。そうゆう去りゆく愛であるからこそ、それを傷つけたいとはおもわなかったのだと。ジーノは初めて女の愛の深さを理解したのである。ここでもジーノの愛の変遷が”二度”繰り返される。

ポー川に転落する車の事故。一度目は飲酒運転に見せかけた二人の共謀犯罪として。二番目は本人自身に生じたすべての夢を奪い去る現実の事故として。


<あたすじ> ウィキペディアより
北イタリア、ポー川の食堂にジーノ(マッシモ・ジロッティ)が現れる。店主ブラガーナ(ファン・デ・ランダ)の歳の離れた美しい妻ジョヴァンナ(クララ・カラマイ)はジーノに惹かれ、彼を雇うように夫を説得する。ジーノとジョヴァンナはブラガーナの留守中に肉体関係を持ち、駆け落ちしようとするが、ジョヴァンナは途中で罪悪感に襲われて引き返してしまう。

ジーノは1人で放浪を続け、ジョヴァンナを忘れようとするが、旅先の港町でブラガーナ夫婦と再会してふたたび店に戻ってしまう。2人はブラガーナの殺人を計画し、自動車事故を装って実行する。

しかし新しい生活を始めた2人のあいだには終始気まずい雰囲気が流れ、ジーノは別の女のところへ入り浸るようになる。一方、警察はブラガーナが殺害されたことを確信し、2人を指名手配した。ジーノはジョヴァンナが密告したのではないかと疑ったが、彼女の一途な愛と、彼の子を身ごもっている事実を知って再出発を決意する。しかし車で旅立とうという矢先、トラックと衝突して彼女は死んでしまった。



郵便配達は二度ベルを鳴らす
Ossessione
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
製作 カミッロ・パガーニ
脚本 ルキノ・ヴィスコンティ
マリオ・アリカータ
ジュゼッペ・デ・サンティス
ジャンニ・プッチーニ
出演者 マッシモ・ジロッティ
クララ・カラマイ
音楽 ジュゼッペ・ロゼーティ
撮影 アルド・トンティ
ドメニコ・スカーラ
編集 マリオ・セランドレイ
公開 1942年
1979年5月
上映時間 140分
製作国 イタリア
言語 イタリア語

3月のべすと10 中間

3月のべすと10 中間

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 わたしのサイクリング日誌が二篇入りました。恐縮です。

 

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