ヴィスコンティ”郵便配達は二度ベルを鳴らす”をみる アリアドネ・アーカイブスより
北イタリアのポー川のほとりが舞台。無機的なモノクロ表現は同じポー川河口を舞台とした後年のミケランジェロ・アントニオーにの”さすらい”を思わせる。ポー川河口付近の荒涼とした風景はネオリアリズモの映像作家たちをひきつけるものがあるのだろうか。
物語はポー川河畔でトラットリア(田舎のドライブインのようなもの)を営む年齢差のある夫婦のところに転がり込んだ流れものとの参加関係。年老いた夫を交通事故に見せかけて殺害、保険金を得た二人は新天地を求めて・・・そして因果応報の苛烈な悲劇的結末!
映画は罪を犯した後の男の逡巡に多くの説明を費やすが、愛ゆえに殺人を犯す人妻ジョバンナ、それからジーのと行きずりの愛を交わす踊り子の可憐さが、さすがに後年のヴィスコンティを髣髴させた。
二人の愛が破たんするのには最初から理由がある。ジーノは定住性を持たない放浪型の人間、ジョバンナは定住型の人間。ラストで定住型の人間が放浪の旅に出るとき、本人にもお腹の子供にも死が訪れる。一方行きずりの愛を交わす町の踊り子と結ばれていたら、同じ放浪型同市違った展開があったのかも知れない。放浪性のモチーフを強調するために、ジーノに何かと世話を焼きたがる興行師との交流が、物語の展開と関係ないにもかかわらず、かなり丁寧に描かれている。電車の中で無賃乗車をとがめられたジーノを救った興行師とジーノの二人が仲良く並んで海を眺める場面と、最後に決裂する場面の直前に置かれた、ポー川河口で仲良く放浪性の意義について回顧的に会話する部分に注目していただきたい。この映画では大事なことは”二度”繰り返される。
物語の白眉は、保険金云々によるお互いの疑心暗鬼が生み出した愛憎の果てに、愛を失うのであればすべてはどうでもよくなるという、あらゆる価値観を放下して放心状態に陥るジョバンナの恋愛観である。愛ゆえの犯罪をいささかも――少なくとも”道徳”的な意味では最後まで後悔しない、という人間造形は
やはりヴィスコンティ固有のものだろうか。最後まで罪におののき愛というものに対して自信を持ち得ないジーノとは対照的である。それから、最下層の世界に生きざるを得ないゆえにこそ純真でありえた町の踊り子の造詣も秀逸であるといえる。ここでも愛をめぐって、殺人という行為をも辞さないほどの愛が執念深きものであるkとと、行きずりの愛という形裏町の一室に顕現した愛の無償性を描く、ここにおいても、”二度”が繰り返されている。この場面の美しさは、殺伐としたマクベス的世界に花開いた一輪の花を見るかのようである。
ジーノの愛は、動物的な愛欲から最後には真実の愛に気がつくに至る。警察への密告というお互いの疑心暗鬼の疑いが晴れたとき、ジョバンナはこのように言う。放浪型のジーノの愛ががやがては自分を離れていくことを理解していた、と。そうゆう去りゆく愛であるからこそ、それを傷つけたいとはおもわなかったのだと。ジーノは初めて女の愛の深さを理解したのである。ここでもジーノの愛の変遷が”二度”繰り返される。
ポー川に転落する車の事故。一度目は飲酒運転に見せかけた二人の共謀犯罪として。二番目は本人自身に生じたすべての夢を奪い去る現実の事故として。
<あたすじ> ウィキペディアより
北イタリア、ポー川の食堂にジーノ(マッシモ・ジロッティ)が現れる。店主ブラガーナ(ファン・デ・ランダ)の歳の離れた美しい妻ジョヴァンナ(クララ・カラマイ)はジーノに惹かれ、彼を雇うように夫を説得する。ジーノとジョヴァンナはブラガーナの留守中に肉体関係を持ち、駆け落ちしようとするが、ジョヴァンナは途中で罪悪感に襲われて引き返してしまう。
ジーノは1人で放浪を続け、ジョヴァンナを忘れようとするが、旅先の港町でブラガーナ夫婦と再会してふたたび店に戻ってしまう。2人はブラガーナの殺人を計画し、自動車事故を装って実行する。
しかし新しい生活を始めた2人のあいだには終始気まずい雰囲気が流れ、ジーノは別の女のところへ入り浸るようになる。一方、警察はブラガーナが殺害されたことを確信し、2人を指名手配した。ジーノはジョヴァンナが密告したのではないかと疑ったが、彼女の一途な愛と、彼の子を身ごもっている事実を知って再出発を決意する。しかし車で旅立とうという矢先、トラックと衝突して彼女は死んでしまった。
郵便配達は二度ベルを鳴らす
Ossessione
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
製作 カミッロ・パガーニ
脚本 ルキノ・ヴィスコンティ
マリオ・アリカータ
ジュゼッペ・デ・サンティス
ジャンニ・プッチーニ
出演者 マッシモ・ジロッティ
クララ・カラマイ
音楽 ジュゼッペ・ロゼーティ
撮影 アルド・トンティ
ドメニコ・スカーラ
編集 マリオ・セランドレイ
公開 1942年
1979年5月
上映時間 140分
製作国 イタリア
言語 イタリア語
物語はポー川河畔でトラットリア(田舎のドライブインのようなもの)を営む年齢差のある夫婦のところに転がり込んだ流れものとの参加関係。年老いた夫を交通事故に見せかけて殺害、保険金を得た二人は新天地を求めて・・・そして因果応報の苛烈な悲劇的結末!
映画は罪を犯した後の男の逡巡に多くの説明を費やすが、愛ゆえに殺人を犯す人妻ジョバンナ、それからジーのと行きずりの愛を交わす踊り子の可憐さが、さすがに後年のヴィスコンティを髣髴させた。
二人の愛が破たんするのには最初から理由がある。ジーノは定住性を持たない放浪型の人間、ジョバンナは定住型の人間。ラストで定住型の人間が放浪の旅に出るとき、本人にもお腹の子供にも死が訪れる。一方行きずりの愛を交わす町の踊り子と結ばれていたら、同じ放浪型同市違った展開があったのかも知れない。放浪性のモチーフを強調するために、ジーノに何かと世話を焼きたがる興行師との交流が、物語の展開と関係ないにもかかわらず、かなり丁寧に描かれている。電車の中で無賃乗車をとがめられたジーノを救った興行師とジーノの二人が仲良く並んで海を眺める場面と、最後に決裂する場面の直前に置かれた、ポー川河口で仲良く放浪性の意義について回顧的に会話する部分に注目していただきたい。この映画では大事なことは”二度”繰り返される。
物語の白眉は、保険金云々によるお互いの疑心暗鬼が生み出した愛憎の果てに、愛を失うのであればすべてはどうでもよくなるという、あらゆる価値観を放下して放心状態に陥るジョバンナの恋愛観である。愛ゆえの犯罪をいささかも――少なくとも”道徳”的な意味では最後まで後悔しない、という人間造形は
やはりヴィスコンティ固有のものだろうか。最後まで罪におののき愛というものに対して自信を持ち得ないジーノとは対照的である。それから、最下層の世界に生きざるを得ないゆえにこそ純真でありえた町の踊り子の造詣も秀逸であるといえる。ここでも愛をめぐって、殺人という行為をも辞さないほどの愛が執念深きものであるkとと、行きずりの愛という形裏町の一室に顕現した愛の無償性を描く、ここにおいても、”二度”が繰り返されている。この場面の美しさは、殺伐としたマクベス的世界に花開いた一輪の花を見るかのようである。
ジーノの愛は、動物的な愛欲から最後には真実の愛に気がつくに至る。警察への密告というお互いの疑心暗鬼の疑いが晴れたとき、ジョバンナはこのように言う。放浪型のジーノの愛ががやがては自分を離れていくことを理解していた、と。そうゆう去りゆく愛であるからこそ、それを傷つけたいとはおもわなかったのだと。ジーノは初めて女の愛の深さを理解したのである。ここでもジーノの愛の変遷が”二度”繰り返される。
ポー川に転落する車の事故。一度目は飲酒運転に見せかけた二人の共謀犯罪として。二番目は本人自身に生じたすべての夢を奪い去る現実の事故として。
<あたすじ> ウィキペディアより
北イタリア、ポー川の食堂にジーノ(マッシモ・ジロッティ)が現れる。店主ブラガーナ(ファン・デ・ランダ)の歳の離れた美しい妻ジョヴァンナ(クララ・カラマイ)はジーノに惹かれ、彼を雇うように夫を説得する。ジーノとジョヴァンナはブラガーナの留守中に肉体関係を持ち、駆け落ちしようとするが、ジョヴァンナは途中で罪悪感に襲われて引き返してしまう。
ジーノは1人で放浪を続け、ジョヴァンナを忘れようとするが、旅先の港町でブラガーナ夫婦と再会してふたたび店に戻ってしまう。2人はブラガーナの殺人を計画し、自動車事故を装って実行する。
しかし新しい生活を始めた2人のあいだには終始気まずい雰囲気が流れ、ジーノは別の女のところへ入り浸るようになる。一方、警察はブラガーナが殺害されたことを確信し、2人を指名手配した。ジーノはジョヴァンナが密告したのではないかと疑ったが、彼女の一途な愛と、彼の子を身ごもっている事実を知って再出発を決意する。しかし車で旅立とうという矢先、トラックと衝突して彼女は死んでしまった。
郵便配達は二度ベルを鳴らす
Ossessione
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
製作 カミッロ・パガーニ
脚本 ルキノ・ヴィスコンティ
マリオ・アリカータ
ジュゼッペ・デ・サンティス
ジャンニ・プッチーニ
出演者 マッシモ・ジロッティ
クララ・カラマイ
音楽 ジュゼッペ・ロゼーティ
撮影 アルド・トンティ
ドメニコ・スカーラ
編集 マリオ・セランドレイ
公開 1942年
1979年5月
上映時間 140分
製作国 イタリア
言語 イタリア語