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マルクス”共産党宣言”にふれて・Ⅲ アリアドネ・アーカイブス

マルクス共産党宣言”にふれて・Ⅲ
2011-07-03 20:39:02
テーマ:文学と思想

2.マルクス主義人間学はなぜないのか。
 ハンナ・アーレントは有名な”人間の条件”の中で、マルクスを念頭に置いて、自然と人間の実存的な関係である人間的諸行為を彼女は、労働・制作・行為に分類した。
 この三区分が意味するものは、主として類的存在としての人間を考える場合にマルクスが前提しているものの考え方の大半が、”労働”概念に基づいた人間論であることを明らかにしたのである。
 一方、”行為”概念が何であるかに関しては、アーレントは古典古代のギリシア時代のものの考え方や社会体制の在り方を批判的に援用して、労働とはギリシア語でオイコス、すなわち奴隷の家内労働に起源を持つことを明らかにし、ここから翻って”行為”とはポリス社会における奴隷性を前提とした自由市民による、表現は悪いが余暇活用、市民的ステイタスの権利としての政治を論じること、としたのである。
 また”制作”とは建築家や彫刻家のような余暇を享受しうる階級より一段下の階級、技能工や職業人の領域とした。興味深いのはこの場合、職人とは石や素材を用いて、それに先立つ理念なり設計図を前提とした目的-手段の構図でものを考える人間の在り方であり、これをアリストテレスにならって目的因と名付けた。現代で云うマネージメントの方式とそっくりなのである。
 マネージメントにおいてはその過程を最適化と言い換えただけである。それよりも興味深いのは、この目的-手段の関係がそのまま同時にプラトンイデア論のアナロジーになっていることである。これはプラトンイデア論がなにゆえルネサンス以降の近現代において興隆をみたかの巧まざる説明になっていると思う。

 マルクスの疎外・物象化論や階級闘争論で前提とした人間とはかかる労働概念に基づく人間観であったと思われる。それではそれ以外の人間的諸行為・行動形態をマルクスが知らなかったのかといえばそうでもない。マルクスの場合、資本主義の墓掘り人として登場してくることになるプロレタリアートとは、現に可視的な形態として存在する個々の労働者や群衆の事ではなかったし、最後の審判に出てくる天使のような天上的あるいは理念的存在ではなかった。誤解を恐れずに云えば、どちらかと云えばプラトンイデアに似ていたのである。かれはそれをプロレタリアートの自己意識として未来に託していた。マルクスは人間的行為や行動の諸形態を必ずしも意識的には捉えていなかった。当面の組織論や商品分析論に忙しく未来の諸課題のひとつと考えていたようだ。

 このようにマルクスの個人的な言説と結果として表現された思想とは異なるのだが、アーレントが指摘した”行為”の領域についてはマルクスにはそもそもが欠けていたようだ。アーレントにおいてもギリシア市民の余暇活動としての公共的活動という示唆が与えられてはいるものの、現代社会において具体的にどのようなものを指すのかと云うと分かりにくい。物でも心でもない領域に成立する人間の行為・行動様式とは、広義においては慣習や世代から世代へと受け継がれる伝統的なものの考え方を含むであろうし、マルクスの上部構造的な領域も当然含まれる。もし人間存在の実存的領域を実存主義の規定に反して、”現在”と云う時制の枠組みから解放すことが出来るならば、それは霊魂や天使の存在を構想することもあながち無意味とは言えないだろう。新しい形而上学の構想と言い換えても良い。カントなら霊魂ならびに天使的理性批判と名付けただろうか。

 マルクスの考え方のどこに問題があったのだろうか。
 ものごとを正確に、外なる対象を如何なる恣意や主観をも交えることなく対象化して捉える、それを目的と手段の系の元に、というふうに近代以降のものの考え方を要約できるとすれば、ものごとを対象化して捉える事だけでは得られないエッセンスというものがあることを明らかにしたのは、”失われた時を求めて”のプルーストである。
 プルーストはものの考え方には二通りあることを明らかにした。すなわち静態的にものを考える方法と与えられるがままにライブとして捉える動態的なものの考え方である。ところで飛んでいる弓矢は如何にして捉えられうるか。正確を期すためにはそれにストップモーションを掛け対象の詳細について主観を交えず観察し記述することがこそ従来推奨されてきた。しかし生き与えられるがままに見えてくるライブとしての実像はそれとは大きく異なる次元に属するものであった。わたしたちは単に見ると云う事を考えると云う事の寓意として前提しているかに見えるが、静態的な思考すなわちものごとを客観化してみるという今まで疑われることも単に意識されることもなかったものの考え方、つまり科学的ものの考え方とは、もしかしたら人間の互換的特性のある部位に特化した、人間r的諸行為の特殊なあり方であるかも知れなかったのである。

 わたしはマルクスを読みながら、勝手に、そのような思惟的(恣意的?)連想を楽しんでいた。