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マルクス”共産党宣言”にふれて・Ⅰ アリアドネ・アーカイブス

マルクス共産党宣言”にふれて・Ⅰ
2011-07-03 18:41:50
テーマ:文学と思想

 いまから凡そ160年ほども前に書かれた、余りにも高名な,ある種の歴史的記念碑にして古典的社会学の著作を大学生の息子のお付き合いをする形で読んだ。特に評価するという高ぶった気持ちはないのだが、二つの言葉について、すなわち”科学的”と云う言葉と”労働”と云う概念にについて、近頃考えていることをつれづれなるままに書いてみたい。

1.マルクスは”科学的”と云う言葉でどういうことを理解していたか。
 こう云う場合は、逆向きに考えて見よう!
 (設問):それならどういうものを科学的でないとマルクスは考えていたのだろうか。概説書や通史の類が明らかにしている点は、様々の傾向の諸セクトの発展的な流れの中で最も有力であったのは当時のイギリスにおける”義人同盟”という組織の存在である。共産党宣言はこの組織と交流を深め理論強化する過程で生まれた。義人同盟なる命名の仕方から解るように、当初よりキリスト教的な倫理性の尾びれを引きずっており、彼らのために教育・訓化すべき”科学的”なる言説の度々の強調は、それまでの社会主義思想のなかに綿綿として伝えられる人道主義的な遺産を乗り越えることであると、いうようにマルクスエンゲルスは考えていた。つまり革命を成就させるものは、主観的な理想や人間の情緒的な善意などと云うファクターを遥かに超えるものであると考えていたようだ。一面的に単純化した表現をすれば、科学的とは個人の主観性の反対概念の如きものとして考えられていたようだ。事実この書”共産党宣言”の中でも、史的唯物論階級闘争史観を生物学におけるダ-ヴィにズムの如きものたらんと書いている。
 科学的と云う事の意味をこのように考えるならば、資本主義こそが伝統的な価値のあるいは封建的で情緒的な関係、人格的な関係のことごとくを破壊し、なまのものと物との関係に還元する社会であるから、そのような考え方こそ資本主義社会に固有の、資本主義社会でこそ成立する特殊な考え方である、という皮肉な結果になる。この点についてマルクスがどう考えていたかは、聡明なマルクスの事であるから、将にかかる事態を自分は“疎外”・”物象化現象”として人類史上初めて、その問題性を射程として捉え得たのだ、と云う風に自負していたようである。しかし疎外・物象化論そのものの解釈はそれで良いとしても、自分自身の存立する立脚基盤が資本主義社会と同一であるというのでは、階級社会とその克服を唱えるマルクスの場合、それだけでは済まない複雑な問題を孕んでいるかに見える。
 マルクスの”科学的”と称する考え方は疎外・物象化論だけではなく、例の階級闘争史観、資本主義が最終的に共産主義社会へと自己止揚すると云う場合の、生産諸力と生産諸関係の不均衡に求める史的唯物論的構図においても踏襲されている。人間の主観的意図を超えて経済構造の自己矛盾から革命と云う事態が必然化されるという有名な言説自体が、資本主義的発展が無限累進的に進むという19世紀的前提、近代的時代制約を帯びている後期資本主義的な状況は別としても、資本主義的な自己疎外・物象化現象を資本主義的から借用した自己疎外論という道具を用いることで、自己否定的に克服するという発想自体に大変な無理を感じる。
 かかるマルクスのように自己矛盾を原動力とするかに見える”科学的”なものの考え方を相対化する方法はないのだろうか。唯物論と称して物心二元でものを考えると云う吟味を欠いた考え方自身が科学を僭称する以前の、ある種の思い込みに陥っているのではないだろうか。例えばプリミティヴな初期の文明や神話的な原始社会においては、物心の二元のほかに、何れとも云えない霊的な領域の存在が信じられていた。ここに・・・信じていたと書くのはなにも私自身が霊魂の存在を信じているわけではないことを言外に云わんが為である。しかし信じてはいなくても霊魂のよううな第三領域の存在について判断を保留することと、その存在を吟味以前に否定することとは大きな違いがある。ものごとが不分明である場合、あるいは自分たちが持っている現在の知見を用いては明晰判明な判断を下せないと率直に表明する態度もまた科学的なものの考え方のひとつなのであるが、これをいきなり物心二元の考え方で断罪することはどうなのだろうか。