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マルクス”共産党宣言”についての雑記メモ アリアドネ・アーカイブス

マルクス共産党宣言”についての雑記メモ
2011-07-03 22:15:02
テーマ:文学と思想

 


マルクス主義と倫理――“共産党宣言”をよんで


 次の諸点についてマルクスはどのように考えていたか、検討してみたい。
1. 人間は、自分自身において、何を善と言い何を悪と考えるか?
2. 今日の社会において、何が悪く造られており、何が改善されうるのか?
3. 君主制、立憲制、および民主制は市民に対してどのような利益と不利益を与えたか?
4. それにも関わらず共産主義が実現していないのはなぜか?
5. どのような労働概念に基づいて最良の社会を考えるべきか?

1.について
 富の不平等があるという現実に対して。
 富の不平等はいかなる時代にもあったが、資本主義社会の到来はその二項対立が、歴史を階級闘争の歴史と考えることにおいて、可視的なものとなり、最終的にはブルジョワジープロレタリアートに単純化しうるという見通しがマルクスの中であったこと。
 マルクスの発想は基本的には平等主義であり、自由の問題を如何に考えるかは従属的な位置にあるように感じられる。

2.について
 労働生産過程はマルクスの場合自然と人間とをつなぐ基本的関係であるが、その自然な関係を阻害するものとして資本主義がありえたこと。マルクスは資本主義の問題点を生産物の配分における不平等、その原因を生産手段の資本家による一方的独占に求めた。
 単に富の配分における不平等ということだけであればいつの世にもありえた。マルクスが注目したのは産業革命以降の生産手段の大規模がもたらした生産手段の資本家への一方的な集中である。
 この結果、自分自身の時間のほかは何ものも所有しないプロレタリアートという階級が歴史上初めて誕生することになった。例えばそれ以前の奴隷であるとか土地に縛り付けられた農奴、町の商工業者やギルドに属する職人の場合はこうではなかった。
 例えば奴隷は主人の単なる持ち物であり、“持ち物”の生存的条件を不利益にすることは近代以前の合理的なものの考え方や一般家政学的にもありえない。農奴の場合は、今度は土地・地代が主人の持ち物となり、人間はそれを耕し生産を生む道具と等しいものと考えられている。奴隷と農奴の違いは生存の極限状況としての逃亡という事態を決定する選択権が労働者の側にあるのかどうかの違いである。
 都市における商人や職人の場合は、商店や必要な工具類等は労働者側に属する。彼らを条件づけているのは封建的社会における部分的、点的な受容と供給の関係と、ギルドにおける階層的なヒエラルキーの関係だけである。例えば中世ヨーロッパ社会においては、カソリックであるかどうかが生存に関わる重大な条件となっていた。

3.について
 君主制、立憲制、民主制は、それぞれにおいて富の配分を廻る階級性の社会力学的な構図である。階級社会が前もってあるのではなく、富の配分を廻って階級という人間の集団が成立する。資本主義の特徴は、諸階級の階級闘争の関係を単純化したと云う点にある。資本主義が階級闘争を単純化出来たのは、共通分母である貨幣の成立、非人格的な貨幣という中性的概念が、使用価値やその他の精神的価値等本来は比較できないものを、貨幣に換算することで、公分母として貨幣を社会の基本に据えた点である。
 君主制は一人の人間が、土地と人民を支配した。立憲制は君主制を踏襲しながら権力を人民の側から制限するものであった。いまやかかる伝統的な統治の関係が、増大する資本主義的生産力と公分母たる貨幣経済の成立によって破壊されるのである。
マルクスブルジョワジーが歴史的に果した役割について以下ように書いている。
① 人間をその生まれながらにもつ上長者に対する封建的あるいは情緒的な関係を引き裂き、裸の利害関係、人と人との関係を単なる損得勘定に還元した。
② 神聖な宗教的な感情や騎士道精神、市民の清貧の思想に冷笑を浴びせかけ、これを市場原理の大海に沈没させた。
③ 既得権や特許状によって保護されていた労働における無数の自由を、良心の無い自由競争原理の篩にかけて埋没させた。
 つまりここから得られる労働者像とは、特定の人格や専門技能を持った職人ではなく、行為関可能の労働時間と工業的成果だけで評価されるプロレタリアートの出現、と云う事になる。

4.と5.について
 マルクスは、自然と人間をつなぐ概念、つまり労働概念を人間の必要十分の条件として考えた点についてはどうだろうか。資本主義に倣って労働時間を切り売りするプロレタリアートの在り方だけが人間の在り方の全てを網羅しうるのであろうか?この前提からは自由の問題は生じない。
 ドイツの哲学者ハンナ・アーレントにならって考えるならば、自然と人間とを繋ぐ人間的労働を三つの水準にわけて考えてみよう。
① 労働:生活の必要条件を満たすためになされる行動。マルクスの時間を切り売りする資本主義的な労働様式や、古代の奴隷や農奴、中性的社会の商業的行為や職人の活動などのこの中に含まれる。精神的労働以外の全ての労働が含まれる。
② 製作:目的と手段の関係において成立する、有形無形の人間の行動。前記資本主義的労働やその他の一般労働を含むだけでなく、精神的労働等無形の人間的活動の全てを含む。しかし貨幣経済を基本とする市場原理の社会では、付加価値や骨董的価値としてその生存が許されるにすぎない。
③ 活動:資本主義を動かす原理とは、欲望の体系であると云う現代人の一般的な理解がある。マルクスもまたこの共通的理解から自由ではない。価値や生産的労働とは、第一に貨幣経済に等価交換化されるマルクス主義的な労働概念に尽きるものけであろうか。あるいは目標を設定しそれを条件化することで実現させる、その最適化能力、つまり眼に見える価値だけが、人間にとって全てであろうか。マルクス主義は、人間が無私無欲でなしうる善意の能力や、人の為に働く公共性の概念を捉えそこなているような気がすると思うが、いかがであろうか。