アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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現代文学としての”トーニオ・グレーガー”・Ⅱ アリアドネ・アーカイブス

現代文学としての”トーニオ・グレーガー”・Ⅱ
2011-07-24 17:46:27
テーマ:文学と思想

 同時代人としての感度の鈍さは、”トーニオ・グレーガー”と同時代に書かれた”マ-リオと魔術師”等を読むと一層明らかになる。とりわけ、この作が後にアファシズムヒトラーの登場を予言したものとして再評価されるのであるから、なにおかいわんや、と云う気になる。

 イタリアを家族旅行をしたドイツ人家族が、ある町の劇場で魔術師の繰りだす催眠術によって観客の多くがたぶらかされるお話しである。ここでもマンはファシズムを非合理的なものと規定し、かく規定する自分自身の立脚点を妥当性を疑ってみることもしない。トーニオ以来のおめでたき芸術家気質は踏襲されていると見るべきである。

 正か邪か、善か悪か、という二元論では第一次大戦前後のヨーロッパ社会に生じた変化を見極めることは出来ない。”マーリオと魔術師”によれば、ファシズムとはおどろしき中世の亡霊の復活のようでもあり、非ヨーロッパ的な要素が強いイタリアでは、西欧の理性主義の伝統も劣勢に立たされかねない、と云う事のようだ。他国のエキソチシズムに非合理なものとしてのファシズムの危機を感じ、やがて非合理なものの本家になる自らの祖国は感じないと云う転倒がある。ファシズムが、高度資本主義の一形態であり、西欧的合理主義が取りえた特殊な形態である、と云う認識が全く欠けている。

 とはいえ、興行場で集団催眠に陥っていく観衆の危機的な状況の中にあって、それに抵抗する意識だけでは不十分であることを明らかにしたマンの指摘は正しい。ものごとの正邪が明らかな時でも、それに心理的に抵抗するだけでは不十分なのだ。抵抗がより高く意識的であるかどうかをこの場合は問わない。人間が集団的な堕落を防ぐためには、声を出さなければならないこと、抵抗するだけではなく、こうしたいと云う意志を示すこと、こうしたいという自らの理想と夢を語ることが出来ないならば、あの全体主義社会と云う言語や論理が外側と内側から構造化された社会においては、崩壊を食い止めることは出来なかった、とマンは云うわけである。これは実に重たい。

 戦後のマンにとっては、ドイツの市民階級とはもはや憧憬すべき絶対的な対象ではなかったと思う。マンの偉大さは、自分の認識の誤りを自らの生涯を生き抜く過程で、一歩一歩粘りずよく認識を新たにしていったことではなかったろうか。トーニオの何処に属して良いかわからない不全感はいまや形を変えて、自分自身の自己存在の存立の基礎に向けられていた。全てが足元から音を立てて崩れ始めた時、”魔の山”のハンス・カストルプのように戦塵の中に身を隠すと云う決断をしか選択する術を知らなかった。多くのドイツ人の誤りをハンスの決断に籠めたとき、やはりマンはトーニオのマニフェストに忠実な作家であったとは言えるのである。