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福田和也「江藤淳と云う人」――三島の死から江藤淳の死まで アリアドネ・アーカイブス

福田和也江藤淳と云う人」――三島の死から江藤淳の死まで
2011-04-06 16:05:57
テーマ:文学と思想

この文集は戦後日本における自覚的批評家としての批評家・江藤淳に関する文集である。とりわけ「江藤淳と文学の悪」は読みごたえがある。読み始めて、相撲で水かいるというのか、途中何度か張り詰めた息を抜くと云うのか、改めて自分の足元、自らが立つ着地点を確認することなしには、文章の”次”へと読み進めることが出来ないという、奇妙な経験を強いられることになった。江藤淳の”現在”を確認するとは、そのまま70年代の三島由紀夫の死から江藤淳自死に至る年月の如何を問う事であった。

この評論集では三人の偉大な昭和の批評家が出てくる。言うまでもなくその一人は江藤その人であり、残りの二人とは小林秀雄と保田輿重郎である。江藤と小林の違いが明らかになるのは三島の死を通してであろう。三島の死が小林にとって最低のレベルでも人間の”誠”を問うものであったのに対して、江藤にとっては病的な死と切り捨てて顧みないのである。いわゆる江藤の”生活者の論理”である。生活の論理からすれば当然そうなるだろう。

1968年の冬のことである。神奈川県中西部の丘陵地に開ける地味な私立大学の薄暗い部室の一角では、現下の都心部での政治的情勢を遠く鑑みながら”生活の論理”を廻って左右に鋭い対立点を生んでいた。一方には観念左翼の超越性の足元を浚う鋭い論法があり、他方では西欧マルクス主義武装した最新鋭の言説とが正面からぶつかった。ちょうどトーマス・マンの「魔の山」のミニチュア版のようなドラマが出来あがっていたのだった。

この時代、”生活の論理”を問うとはもはや小林流の観念左翼の幻想性の足元を切り崩すことだけで十分ではなかった。江藤の生活の論理が単なる小市民の論理と一蹴できないないのは、”喪失”によって得られた精神的無産性が当時の実存主義の虚無と無前提性によって補強されていたからである。生活の論理とは江藤淳の三田風や英国紳士風の外見にも関わらずルンペン性プロレタリアートだと思っている。

こんなことを書けば江藤のことを”先生”と敬慕して何やら「こころ」の師弟関係を彷彿とさせる福田からぶんなぐられそうだが、本質はそうだという私の直感は揺るがない。福田の出自がどうやらハイデガーであること、大学院時代のテーマがフランスにおける対独協力者の研究と云うのだからその親近性の由縁もゆえなしとしない。実は長いこと江藤のことを日本の古き中産階級の記憶をつなぐ英国風保守主義と思っていたのだが、図らずも福田の本を読みながら江藤が後天的に取得したらしい江藤文学の恥部、思いがけない”仮面”に気付かされることになってしまった。神士然とした羞恥を知る江藤文学の中に紛れ込んだいかがわしさ、そのルンペン性をこそ拡大したものこそ福田和也の文芸理論なのではなかろうか。これはけして貶めて言っているわけではない。ハイデガー哲学の本質をルンペン性であると喝破したところでいささかもハイデガーの哲学が揺るがず彼の哲学が持つ問題性がいささかも縮小されるわけではないように。

しかしこんな”暴言”めいたことを云うのも江藤淳への愛情のためなのである。江藤淳の存在は二十歳代の私にとって他の作家とは比べ物にならないほどの重さを持っていた。”自己否定の論理”とは生活の論理への一つの応答なのである。無前提・無幻想を解く江藤の生活の論理とは、それ自体で自足しうるものではなく、その外延性は非合理なものの領域に臨界的に接していた。つまり福田によって”悪”なるものの不在として結論づけられた合理性の論理は、ある種の臨界点を境に容易に正反対のもの、すなわち非合理的なものの領域に反転する脆弱さをその小市民性のラディカリズムは秘めていたのである。

生活の論理が詰まらないのは小林秀雄や福田がいうように”悪”がないこと、小市民的であるこにあるのではなく、それを徹底すれば非合理な領域に飛翔せざるを得ず、”治者の政治学”(『成熟と喪失』)は徹底することの断念のおいて瞬間的に成立する均衡の美学として成立していたのである。かかる動を秘めた一瞬の靜、戦後的な危うい均衡の上にこそ江藤淳のあの得意な文体が成立していたのである。

1999年メディアが江藤の死を報じた時、遠い旧友の影が一瞬通り過ぎたかのような感慨を持った。その後ろ姿を見送る私の視線は御用済みの歴史的経験を見送る時のような冷淡さがあった。しかしあれほど自殺行為を禁忌した人間が逆説的な形で自死を選んだ時、合理が非合理へと通じる臨界点の思想の優位を誇る気にはなれなかった。むしろ妻である慶子さんの死に殉じるような彼の純愛に私は初めて哭いた。その時私とかってのライバル――江藤淳のような大家を前にしてライバルとはおこがましいが!――の表情はあえて言うならば、かの保田輿重郎に似ていたということは言えるのかもしれない。その涙は共に愚劣な現実に対峙し、疲れ果てて自死を選んだものへの同志的な愛惜の情でもあったろうか。その日から江藤の死は私の中でささやかに甦ったのである。

最後に60年代の”自己否定の論理”とは何だったかを”親切?”のために書いておこう。江藤の生活の論理がこれ以上なく具体的・経験的であるように見えながらその実”生活者”とは限りなく市民社会においては抽象的な存在なのである。吉本隆明の生活者を自立の拠点に据える思想も大幅には違わない。
しかし、一個の思想が、一つの言葉が、そして一つの固有な文体が力を持つのは抽象的一般者であるからではない。人間と云う抽象的存在において語ることは出来ず、人の言葉が命を持つのはかけがえの無い人称的な存在者として語る場合だけである。生活者の論理は観念左翼の幻想性を撃つのには有効でありえたかもしれないが、自らの虚構性を知らないと云う意味では一個の自己欺瞞”態”なのである。

人は抽象的一般者として生きるのではなく、あの人この人と云う具体性として、個性的存在者として生きる。かかる個性的存在者は市民社会においては、例えば医師として、保険外交員として、旋盤工として生きる。何時の場合も一般的な徳目である道徳が倫理へと高まるためには、市民社会の中で生きる無慈悲な強制力であるところの社会的規定性を自覚的に捉え返し、そこから職業倫理という磁場を経験した知的徹底性においてでしか資本主義社会の幻想的呪縛性に対抗する術はない。生活者の論理とは、一般倫理学では結局社会の規制力である一般道徳に収斂されるものでしかないことに対する自覚が極めて弱かった。文学や社会の持つ”悪”への免疫性が微弱なのである。ラディカルな思想家が何故晩年保守化するかの理由を理解する一端にはなると思う。

私たちの旅は職業倫理の磁場というイデオロギーの挟撃的布陣に耐えて、問題の所在が自らを語るかってない公共性の場を開くことである。