アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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"トーニオ・グレーガー”再論  アリアドネ・アーカイブス

"トーニオ・グレーガー”再論
2011-07-24 08:17:13
テーマ:文学と思想

1.市民たちと芸術家の魂の対立
市民社会の成立と管理化社会の徹底は、外見的には一見自由であるように見えて、内実は個性や個人的な自由度と云うものを必ずしも許容しない社会であることは現代とも共通する課題であるようだ。
ドイツの小説家トーマス・マンが20世紀の初頭、ぶつかった問題もこの問題であった。自由を許容しない世界を、ここでは父親に代表される如何にもドイツ的な市民階級の実直なモラル意識に求めている。一方イタリア生まれの母親は夫の死後さっさと愛人と家を去っていくような人であるから、自由に憧れながらも若き日のマンにとっては最初から比較できるような問題ではなく、市民社会のモラルとはそう簡単に芸術や学問の前に切り捨てさるべき軽い問題ではなかった。戦前の日本の小説家のように孤立弧高であることに独善的な満足を感じたり、文士的な世界に安住することは許されていなかったのである。
しかしその市民社会は成人し一応作家として名をなしたトーニオを受け入れてくれるわけではなく、まかり間違えば犯罪者として警察に連行しかねない異質な社会なのであった。この小説はそんな若き日のトーマス・マンを思わせるトーニオ・グレーガーという青年が故郷を訪ねて和解を求める物語なのだが、それがセンチメンタルジャーニーに終わることは最初から運命運命づけられていた。
先に書いたようにトーニオは故郷では親近の情で受け入れられるどころか犯罪者扱いをされるのであり、故郷に類似した雰囲気を求めて行ったコペンハーゲンの町も繁華であるがゆえに却って心をざわつかせてしまうのだった。それでいっそ人気のない岬に突き出た田舎の閑静なホテルの投宿したのだが、皮肉な巡り合わせと云うかトーニオのトラウマは何処までも執拗に追いかけてきて、田舎のホテルのホールで、あの少年の日の骨の髄まで孤独であることを痛感させたあの夜の舞踏会の出来ごとを遂一、再現するのだった。
トーニオは、都会を遠く離れた異国の田舎ホテルの一室で和解が不可能であることを今更ながらに理解するのだが、しかしここに一個の劇的な回心が訪れる。それは宗教的とでも行ってもいい神なき時代の回心である。つまり自らが如何なる世界にも安住できない孤独な人間であるとするならば、その絶望の底から反転して一切他に頼ることなく、自らの責任において、自らを疎外して止まない市民社会の世界を愛し父親に代表される世界の側に立ちづ続けることを選択することもまた、自分自身のアイデンティティの証明ではないのであろうか。こうして彼は小説の終わりに結論のように、彼のことを密かに心配してくれている親友である女流画家のリザヴェータに、深遠な文学の世界を選択するよりは、ごく普通の愛すべき市民たちの世界の側に立つ作家でありたい、と宣言する。「トーニオ・グレーガー」はトーマス・マンマニフェスト宣言であるともいえる。それは小説化もまた社会の中で固有な働きをすべきであると云う、マンの思想の表明でもあった。
しかしながら21世紀の現代において読み返してみるとこの作に限界がないわけではない。最初の部分で書いたように身分制が崩壊し市民社会が成熟すると人はそれぞれの個性において生き方を選ぶようになる。一方管理社会化の徹底は労働と生産の単位に個人を還元し、このせめぎ合いのうちに私たちはこの世に生まれる。
トーニオ=マンが感じる“どちらの世界にも属しえない”と云う不全感は、高度管理化社会の病理的とも言ってよい社会的な問題だったのである。マンの限界はこの問題を市民社会と芸術家の対立と云う半ば固定化された気質の問題として解こうとした点にあり、ハンスや金髪のインゲに代表される世界は不変の対象として絶対化され、芸術家が何か市民的な道徳に迎合すれば良いような心構えの問題と云うか心理的な問題にされてしまっている。マンの目には芸術家と市民の気質の問題として捉えられたものが実は大衆社会における社会の問題であると云う現代史的な観点がやや欠落し、古き良き時代の感傷旅行にしてしまったことにこの小説とトーマス・マンの限界があると思う。

2.岬のホテルでのハンスとインゲボルグとの再会は現実か?幻想か?
 この小説のクライマックスである第8章の岬のホテルでの舞踏会は、一見トーニオが昔のハンスやインゲと再会したように書いてあるが、実際にはトーニオが見た夢、あるいは夢の如き幻想的な真実に基づいた心象風景ではなかったろうか。昔のハンスやインゲに似た雰囲気を持つ異国で出会ったサークルが過ごす束の間の歓楽の時に昔に思いをはせ、今更ながらに市民たちとの和解しがたき距離を実感したのだと思う。
 あれから13年も経っているのであるから、実際のハンスやインゲに再会したとしても昔の面影が小説に描かれたように鮮明に残していたかどうかははなはだ疑問である。トーニオを無視したように市民的な歓楽を楽しむインゲたちとの世界の間に引かれた線と、決してそこにたどり着けない自分自身の在り方、そして念が入ったことに同類相哀れむというか仲間に馴染めず一人ぼっちでいる孤独な少女との間に成立した憐憫と反発のアンビバレンスな感情までが正確に克明に再現されている、という念の入りようなのである。かくも過去が忠実に再現されたのは、それがトーニオの内面に生じた幻想、古びることのないトラウマの如きものであったからにほかならないのである。
 小説はどのように読もうと読者の自由であるのだが、この場面を実際に起きたことと理解することは小説の理解を浅いものにする。作者の真意がどうであったかを推測しながら読むとすれば、ここは夢もしくは幻想と考えてこそ小説の構成がくっきりと生きてくる、と思う。