アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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スタンダールの女性像 アリアドネ・アーカイブス

スタンダールの女性像
2011-12-01 11:40:02
テーマ:文学と思想

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3d/Stendhal.jpg/463px-Stendhal.jpg


赤と黒” のレナール夫人についての人間像については言及されていることも多いのであえて割愛した。一言だけ付け加えるとすれば、レナール夫人はいわゆる ”貞淑” な女性、というようなものではない。通常の規範的な道徳観や慣習といったものが彼女の場合深刻な影を落としていない。事態が最終的な相を帯びたとき、彼女は迷う事なく地方の名族の外見をかなぐり捨てることを躊躇しない。ジュリアンの助命嘆願のために名望家の地位を利用して、国王への直訴、ということまで検討するに至る。これには流石にジュリアンに諌められてしまうのだが。
 真実はしばしば自己を主張する時滑稽さと云う外見をとる。あるいはこの世を越えた価値観の表現は、尋常ではありえず、滑稽さや喜劇、あるいはアナクロニズムと云った表現形態をとらざるを得ない局面がたまにある、この点はなかなかレアリストたちの理解が及ばない点である。

 レナール夫人の愛は、愛の極限態において、あらゆる慣習や世俗的価値が無意味となる。そこにおいてこそ人は人となる。これはフランス人文主義の勝利なのだが、愛の時刻とはかくも固有な時刻なのである。そこではあらゆる世俗の音が沈黙する。

 最終的にジュリアンの魂の愛の遍歴を制し勝利したのはレナール夫人だったのだろうか。”赤と黒” という小説は、レナール夫人のジュリアンに対する愛の受難史、愛の薫陶教育の物語として完結するのだろうか。ここに女の名誉を掛けたマチルドの敗者復活戦が始まる。

 市民社会の勃興期、すなわち旧価値がアナクロニズム化し、ジュリアンに代表されるような身分差による階級的価値観を根本的に崩壊させてしまうような予感の不吉な使者を前にして、中世的なロマンティスムに自らの行動の規範を見出そうというマチルドの生き方は、一見反時代的であり滑稽ですらある。ここにおいても、時代の規範性を越えた価値観の表明は滑稽さや喜劇という形式でしか表現しえないことに対して、作者スタンダールは自覚的ではなかったようだ。愛のドン・キホーテとも云うべきひどくヒロイックな人間像に対して、技巧や権謀術数といった外見的な特徴を描いただけに満足しているかのようである。しかし歴史的な記憶を自らの中に実存として呼び覚ますという点においてこそ、彼女の生きることの特殊な様式がありえた。

 ジュリアンの刑死が確定する段階で彼女は自分自身の本質に辿りつく。伝統的な家門意識と中世的な故事来歴の密かなる信奉家である彼女にとって、禍々しい不吉な血に縁取られた悲劇のヒロインと云う役割が時空を超えて到来する。最後の数日間、マチルドは遠いシャルマーニュ時代の聖者と騎士道物語を生きていなかっただどうか。分断されたジュリアンの首を密かに盗み取り、人知れず洞窟で蝋燭のおぼろげな光の基に卓上の英雄の首級を礼拝する時、聖書の故事が生々しく到来していたのではなかったか。彼女は蝋燭の暗い蝋燭の炎のもとで密かに凱歌を挙げたに違いない。マチルドもまた彼女なりの愛の固有性に到達していた、と云うべきである。

 ジュリアンの魂はどちらの方に行ったのだろうか。個人的にはレナール夫人の方に行ったと思いたい。この世では満たされることのなかったジュリアンの魂は、母のようなレナール夫人の懐に帰ったのである。
 しかし歴史的人間像としてのジュリアン、時代精神の要請としての魂を確保したのはマチルドの方ではなかったか。この点は歴史物語作者としてのスタンダールの力量の不足がゆえに十分な形象的な表現がなされなかった、と思うのである。

 こうしてレナール夫人とマチルドと云うジュリアン・ソレルを廻る二つの人物類型を統合するような位置に、”パルムの僧院” のサンセヴェリーノ公爵夫人が登場する。母のような愛で主人公ファブリスを慈しむことにおいてレナール夫人の後身であることがわかる。しかもファブリスを守るためには政略結婚や偽装結婚をももろともしないばかりか、最終的にはパルム王国の大公を毒殺までしてしまう。まるで ”マクベス”のマクベス夫人と云った趣である。宮廷暗殺劇は彼女にとって戦場における戦術・戦略のひとつのようなものであり、良心などと云う厄介な代物の出番はない。さばさばしたものである。

 彼女の唯一の欠点は、彼女の神通力がファブリスだけには利かない点にある。不退転の決意で進めた宮廷劇も戦略的には勝利を収めながら肝心の戦術的な側面で躓いてしまう。宮廷的権謀術数、知力とエレガンスを使い果たした時、当代の淑女は最後は肉体を使うところまで追い込まれてしまう。しかし彼女の払った代償の大きさゆえに彼女は許される。つまり全ての不祥事は曖昧化され、彼女は生きのびる。

 スタンダールの表題の解釈をめぐる曖昧さは有名だが”パルムの僧院”もたその例に漏れない。私見によれば”パルムの監獄”としたのではこの小説が伝えようとするロマンティシズムと馴染まないからである。しかしこの小説で一番美しい場面は、パルムの監獄で交わされた手話の如き沈黙の会話であった。誰もに読み解かれることなく交された秘密の会話、それがこの小説に比類なき卓越した時間を生みだしたのである。

 クレリアは、スタンダール小説の他の錚々たる人物像に比べると十分な肉付けをされたとは言い難い。日陰の花のような彼女が俄然光彩を発揮するのは物語の大枠が完了してしまった後、つまり罪の虜になった彼女が禁断の暗闇の中での逢瀬を、やむにやまれず選択する場面である。

 近代人の観点から彼女の行為の矛盾のいちいちを指摘するのは容易い。矛盾していようが滑稽であろうが、成されなければならない思いがこの世にはある、クレリアが到達した最後の段階はたった一人の、恋人ですら不在の、精神が凍りつくような孤独な愛の時刻であったのである。
 
 クレリアは、意図せざる育児放棄のような形でファブリスとの間に育んだ愛の形代を死なせてしまう。罪なき赤子の死が同時に罪そのものの象徴でもありえたところに彼女の生の不可能性がある。つまりクレリアには生きる余地が全く残されていなかった、ということである。罪業と因縁の深さに慄き、歯ぎしりするように絶望の最中に、子供の死に殉死するような形で彼女も、そして時を置いてファブリスも死んでしまう。なんと、19世紀に豪華絢爛に花開いた愛のスタンダールの文学の総決算なのである、フランスロマン主義文学の精華の、竜頭蛇尾と云えば酷だが、沈黙の中に最高の音楽を聴き、罪の盲いた闇の中に最高の諧調を聴いた、他に追従を許さない、不思議に心打つ幕切れではあることか。