アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

クレリア――”パルムの僧院”の女人像 アリアドネ・アーカイブス

クレリア――”パルムの僧院”の女人像
2011-11-14 21:38:29
テーマ:文学と思想


 
 小説の表題の由縁が分からないと云う不思議な小説である。”パルムの僧院”の名前は、物語の結構が全て果てた後にあっけないほどそっけなく失意の主人公ファブリスがパルムの僧院に隠棲したということを伝えるだけである。むしろ内容的にはパルムの”監獄”とすべきところを、これでは語呂が悪いので、”・・・の僧院”としたのだと思う。実際、この小説の中で白眉のヵ所が何処かと問われれば、パルムの監獄の狭い窓越しになされた清純な少女クレリアとの秘密の逢瀬を語る場面であろう。一見ありそうもない舞台設定と交情の儚い頼りなさゆえに、この世のものとは思われないほどの愛の天上性を描き出している。現代小説のよく成し得るところではない。

 同時にこの場面はクレリアの父親の毒殺未遂という罪の意識の上に成立するものであった。ちょうど泥の池の上に咲く華麗な蓮の花のように。この罪の意識が、クレリアをおしてファブリスの顔を見ることのない”暗闇の中での逢瀬”という、気味の悪い逢引の場面へと発展する。光が閉ざされ手探りで相手の実在感を確かめる愛の所作は子供をもうけるまでに激しいものだったのである。地獄に咲く紅蓮の炎と云ってもよい。清純さと愛のグロテスクが同時に悪魔のようなスタンダールの筆記の冴えによって描き出されている。

 現代人の目から見れば矛盾だらけの二人ではある。しかし愛の不思議さは矛盾だらけであろうとなかろううと貫かなければならない局面が愛にはある、ということをスタンダールは言いたかったのだと思う。クレリアが通常の恋愛小説の主人公とは異なるのは、悪魔に身を売っても愛を貫きたいという溢れるような思いを自覚的な決断として静かに受け止めているがゆえにである。悪魔に身を売ると云えば毒婦に描くのが通例だが、清純であるがままに悪魔に身を売っても求めなければならない、やむにやまれぬ気持ちを描いて感動的である。

 ファブリスとクレリアの間の子は罪の子として、二人のエゴイスティックな愛のやり取りの間で死んでしまう。罪が赤子と云う形で白日の目に見える形で二人の前に現象し、そしてこの世の罪業とは何のかかわりもないまま無垢の子供は罪の子として死んでいくのである。その罪業ゆえにクレリアも後を追うように亡くなってしまうのだが、精神的な自殺と考えて良いだろう。それにしてもファブリスの愛される値打ちのないこと、ふがいない男であること。それにしても安っぽいスキャンダラスな三面記事的な事件からでも偉大な小説が出来ると云う事例である。

 いっぽう、清純な乙女でありながら、悪魔を見据えるほど明晰で、罪に染まりながら紅蓮の浄火で自らをも焼き清めるかのような聖性の極みと罪業の極限を演じて、他に類例のない女人像をスタンダールは生み出している。