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スタンダールの”赤と黒” アリアドネ・アーカイブス

スタンダールの”赤と黒
2011-11-29 18:14:28
テーマ:文学と思想

 高校生の時以来忘れていた”赤と黒”を再読した。”パルムの僧院”同様、完全に失念していた。スタンダールの一面成熟した、ある意味では技巧的な人間関係を読むには若すぎたのだろう。それから半世紀近くの時間が過ぎてしまったわけだ。”パルムの僧院”を再読し、今回”赤と黒”に辿りついた。しかし私の率直な感想は、スタンダールは一般にいわrているほど恋愛小説の達人ではない、ということだろうか。

 どちらの小説も大変に似ていて、前半と後半が異なったヒロインの描写に費やされていて、一貫した読み物として鑑賞するには、緊張感というものが途切れてしまう点は弱点だろう。”パルムの僧院”と”赤と黒”の違いは、クレリアとマチルドの違いにすぎない。レナール夫人とサンセヴェリーナ公爵夫人は外的人間像としての大きな違いは認められるけれども、スタンダールの恋愛論の構図の中では同一の位相を占める人物と考えられるからである。

 多少譲歩するなら、サンセヴェリーナ公爵夫人はレナール夫人とマチルドを一緒にしたようなところがある。つまり愛の無私さはレナール夫人に由来し、恋愛が同時に持つ外在性、政治性はマチルドに顕著なものであり、サンセヴェリーナ公爵夫人はその両方を併せ持っている。そのような意味で”パルムの僧院”の方がスタンダールの文学において総決算的な意味が顕著であったことが分かる。

 ”赤と黒”は今日からみれば、青年の愛の情操教育史、とも読める。ジュリアン・ソレルはその出自ゆえに劣等意識と被害者意識の持ち主として紹介されるが、彼は獄死を待つ数日間において、自分の見失ったものに初めて気付き、それを守るためにあらゆる再審の勧告を拒否し死んでいくのである。

 しかし”赤と黒”もまた読み終えて、少し冷静になって考えるとプロットそのものは三面記事的なチンピラの一代史にすぎない。成されたことの矮小さと得られた結末の神聖さの非対称性があまりにも極端なのである。三面記事から偉大な文学を紡ぎ出すというのはスタンダールの偉大さの証明かも知れないが、彼の恋愛観そのものを今日の目で新たに照らし出して見るのも良いことだろう。

 遥かに年長のサンセヴェリーナ公爵夫人やレナール夫人との関係は母性愛の変形とも云えるものであって、恋愛の初期的な形態はこのような形から進化する、と云う以上のものではないだろう。

 二番目に、恋愛の技巧を尽くすマチルドの愛は、むしろフランス風政治学と云うべきものであって、実際マチルドとの恋愛を語る経緯は同時に、1830年代を背景とした過激王党派の政治劇の裏面史と同時に語られるのである。政治も文学も語れるのではなく、恋愛と政治の内面的関係があるからこそそ恋愛小説”赤と黒”は、同時に政治小説として語られなければならない必然性があったのである。

 スタンダールは小説の中で、時々作者がしゃしゃり出て物語の進行とは無関係なことどもを時に随想風に語るが、恋愛小説と政治所説の混淆が実は一般的読者の趣味を逆なでするものであり、まるで劇場でピストルを発射するほどの愚行である、とわざわざと述べている。スタンダールが言いたかったのは恋愛と政治との間に秘められた内面的な共通性なのである。

 マチルドが持つ恋愛術の政治性は、”パルムの僧院”のサンセヴェリーナ公爵夫人のマキャヴェリズムとなって典型的な表現に到達している。スタンダールにおいては愛を語ることと政治を語ることは必ずしも背反する事象ではなかったのである。

 スタンダールの恋愛論の限界は、19世紀の愛のドンキホーテであったマチルドの評価を成し得ないところに表れている。何かと云うと家門意識の権家の象徴でもあり巫女じみた狂信性をもったマチルドの愛を、表面的な愛の手練手管あるいは表面的な政治的な文脈の中でしか評価しえていない。何かと云うと彼女の行動を律するシャルル9世とアンリ三世だったかの祖先の英雄史的叙事詩譚は単なるアナクロニズムなのではない。

 ”赤と黒”の最終場面で刑死したジュリアン・ソレルの分断された首級を卓上に備える儀式は世紀末のオスカー・ワイルドを予感させ、はるかにサロメ伝説を彷彿とさせる歴史的視野の広大さを持っている。人間の行動様式が歴史的伝承をにない遥かに重層的な時間性を獲得する時、これもまた愛の様式のひとつなのである。

 スタンダールは彼の”恋愛論”の中で愛を四つに――情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛――に分類して見せたが、啓蒙主義者の彼には歴史的恋愛なり神話的恋愛は評価できなかった。否、共和主義者の彼としてはその存在を認めること自信が自己の実存の否定を意味した。

 確かに”赤と黒”と”パルムの僧院”は恋愛小説として、あるいは19世紀の世相を描いた客観小説として評価を首肯しよう。しかし読了してファブリスもジュリアンも私には一介のチンピラの一代記としか思えない。レナール夫人やサンセヴェリーナ公爵夫人やマチルド、とりわけクレリアの存在と比較した時にその非対称性だけが際立つてしまうのである。

 ”赤と黒”という表題の由来について誰しもが正確な定義を与えないのが何ともまどろっこしいのだが、いままでの経緯から普通に理解するならば、”赤と黒”とは”愛と政治”あるいは”愛と世俗”の対立項を軸とする物語であった、と理解すべきでだろう。

 ”赤と黒”のジュリアン・ソレルの長所は、本人が自負するほど如何なる場合もマキャヴェリストではありえなかったし、大事なところで政治的な利害や物質的な打算を放棄するかのような、否定の力学、否定の神学としてそれが働く点にこそある。

 彼の向こう見ずさは最後の裁判における最終弁論において典型的に表れる。陪審員の感情を逆なでするような言説を得意げに論じ、弁舌の自己陶酔の果てに死刑の審判を”自己否定的に勝ち取る”。ジュリアンのこの世における最後の映像はむしろ中世の異端審問における自己告発やソクラテスの弁明が持つ精神病理に近かった。

 この時彼は限りなくマチルドの神話的愛の象徴性に近づいてはいたのだが、共和主義者としてのスタンダールの明晰な理知の光源は歴史の薄暗がりあるいは神話の先史的事象までは届かなかったようである。ちょうど”パルムの僧院”のファブリスがクレリアの神秘的な愛に近づけなかったように。

 恋人に会ってはならないという罪の意識に慄きながら、それでも暗闇の中でなら恋人との語りあいだけでなく肉体的な交わりですら是認してしまうクレリアの詭弁と云うか、近代人の目には自己欺瞞としか映じない紆余曲折の果てに、完全な自己放下の果てに罪を受け入れ、その凛然とした姿勢においていっけん聖者かと思わせる彼女の精神の気高さ、精神の潔さは、むしろ愛の”神学”とでも呼べるものに近かった。

 物語作家としてのスタンダールの偉大さは啓蒙主義者や共和主義者としての政治的理念の否定を意味するような人間像を、つまり作家のパーソナリティを越えてクレリアやマチルドのような突出した人間像を描きだした点にある。