アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「じゃじゃ馬ならし」アリアドネ・アーカイブスより

シェイクスピア 「じゃじゃ馬ならし
2012-02-22 21:58:10
テーマ:文学と思想

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   読み終えて、やや意味不明の序幕であるとか、劇末尾のヒロインキャタリーナの良妻賢母を説く長弁舌を読みながら、またもやこれを書いたシェイクスピアの存在について複雑な気持ちに誘われる。シェイクスピアの文学には一貫してフェニミストの側面が一貫してあるが、これは後天的に学んだ知識や思想であるよりはより気質的なものが感じられる。そうしたシェイクスピア感からすれば、この作品が齎した結論は何とも納得しがたいものがある。

 物語は、イタリアのパデュアにある気性の激しい娘がいて、彼女を結婚させるために周囲がやや手荒な劇中劇を仕組む、といったものである。しかもこの物語自身が、先ほど意味不明と書いた序幕によって、暇を持て余した宮廷人の人を誑かす為の旅芸人による余興、とダ出し書きされているわけであるから、例によってシェイクスピアらしいメビウスの輪的な構造を持っている。一見した内容の軽薄さゆえにシェイクスピアの真作かどうかを疑わしめるものがあるのだが、ヒロインのキャタリーナは、『から騒ぎ』のベアトリックスに良く似ているので間違いがないような気がする。

 物語は至って単純なのだが、意外と登場人物が多く、しかも端役に至るまで役回りが目配りされているので、これは案外頭脳的に造られた知的な作品であるのかもしれない。ヒロインとヒーローのキャタリーナとぺトルーチオは言うに及ばす、二人の姉妹をめぐる家族・親族、使用人を含めた人間関係の出入りが実に激しく、初めて読む分には一々前に戻って人物像の役回りを確認し反省し記憶を呼び出さなければならない。なかなかすらすらとは読めず、意外と時間のかかる戯曲である。
 しかし、こと実際に劇場の演目に付される場合はどうなのだろうか。軽快なテンポと、機知にとんだ鋭いやり取りを聴いているうちに、あっという間に時間が過ぎるのではないだろうか。後半の祝祭場面も含めて衣装の華やかさや登場人物の多彩を考えると、きっと劇場映えのする演目であったに違いない。これがこの戯曲の人気の理由なのである。

 エリザベス朝時代、イギリスに於いては他国に先駆けて女性に地位向上のようなものが起きていたのだろう。もちろん今日のフェミニズムの観点からすれば不徹底でお粗末な代物に過ぎなかったのだろうが。他にもシェイクスピア史劇において政治的犠牲者に女性が名を連ねるのも一面、女性の影響力が無視しえないものであったことの反面的な評価であったことも考えられないわけではない。
 さて、シェイクスピア文学に於いてはフェニミズム的な観点が基調にあり、それが『じゃじゃ馬ならし』や『から騒ぎ』のような一見ナンセンス劇じみた喜劇の誕生にも力を貸しているに違いない。シェイクスピアの実像には不明な部分が多いと云われ、彼には異性の双子の妹がいたことが知られている。彼に似て才気煥発なこの女性がどうなったのか不明だが、何らかの不幸な事情で若くして亡くなったとも云う。そうした事情を勘案しなければ、このドタバタ劇にかき消されて永遠に聴くことができなくなった、渋みに満ちたアルトによる通奏低音を聴きだすことは不可能である。

 シェイクスピアの時代に於いては、女性は目覚めつつあったが、その理念を生かして生きるためにはまだ余りにも障害が多かった。若き日のシェイクスピアの周辺には、彼自身が半ば夢見る人で会っただけに余計敏感にそのことが予兆として記憶されたのではなかろうか。そしてもしかして彼とよく似た資質の女性が実妹として間近にいてその悲劇を経験したのではなかろうか。彼が、決して語らぬ青春期の空白には、そうした個人的な秘密があったのではなかろうか。そうでなければ、このように無内容で騒がしいだけの、魅力的な筋の展開を欠いたドタバタ劇の、しかも反面、哀調を帯びた喜劇が書かれる筈がないのだ。

 『じゃじゃ遊馬ならし』や『から騒ぎ』のキャタリーナやベアトリックスは幸い、同情心と指導力に富んだ配偶者を得ることで、平凡でも幸せな生涯を全うすることができた。しかしこれはほんの例外でしかなかったに違いない。一人の娘を守るためにシェイクスピアは何をしたか。あの大天才が、と思えるような小人物めいた遺産目録と遺言状をしたためた。最晩年の『テンペスト』では自分の生きた時代を嵐に例え、劇場人として生きた自らの越し方を魔術に例え、一人娘の平凡な幸せのためにはその魔術を放棄することと引き換えても悔いところはない、とまで言い切るのである。

 そう云えば、この平凡極まりない凡作の、凡そ教訓には程遠いこのナンセンスな劇中で、一つだけ、「おや」と思うところがある。それは、万事が、金だ!資産だ!地所だ!と叫んできた求婚者ぺトルーチオに対して、キャタリーナの父親であるバブティスタは、――いっけん、この劇中ではお飾りのような存在である訳者であることのその延長線で、何げなくこう云う、これは知れ者シェイクスピアが稀に見せる失態なのであろうか。――

「その前に肝心なものを手に入れなければな、
つまり、あの娘の心です。それがまず大事でしょう」
(第二幕第一場)