アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『情事の終わり』にみるカトリシズムとプロテスタンティズム・Ⅰ アリアドネ・アーカイブスより

『情事の終わり』にみるカトリシズムとプロテスタンティズム・Ⅰ
2012-02-23 10:14:54
テーマ:文学と思想

随分大きな題!を付けてしまいましたが、キリスト教徒以外の人間の目にも、ヨーロッパの宗教的事情は、このように興味深くみえた、ということで読み捨てて下さい。本物のキリスト教徒の方からみれば随分と可笑しな議論だと思われるかもしれませんが。
 それから実際のイギリス社会における諸宗教の複雑な事情なども勘案すると一口に何事かを言えるわけではない、ということも了解しています。通常知られているのはイギリス国教会と云うのがベースにあって、これは一応プロテスタントに分類されているのですが、ローマ教会からの分離はヨーロッパ大陸プロテスタント諸派とは異なって、あの有名なヘンリー8世の私的あるいは政治的事情によるもので、純粋に宗教的な動機に起因したものではなかったことでしょう。それでイギリス国教はカソリックの様式を祭儀や供犠などに残しながらその後時間をかけて、少なくともエリザベス一世の時代までには徐々にプロテスタントの教義を取り入れていったのではないかと考えられます。しかしイギリス国内の大陸系のプロテスタントは、後に清教徒と云われて国外追放のような形で追われてアメリカ合衆国の建国の起源に繋がる、と云うのですから歴史は面白いですね。

 それからエリザベスと王位を激しく争ったメアリー女王と云う方スコットランド地方におられて、彼女の死をめぐる一連の政争が、イギリス史における最後のカソリック側の総反撃の機会になったようです。このあとカソリックは歴史の表舞台に出ることはありませんでした。イギリス史におけるカソリックの問題はいっけん目立ちませんが、シェイクスピアの史劇などを読むとフランスの政治的介入がとても目立ちます。これなども国民国家成立以前のお話ですから、単なる覇権主義的な政治的介入と云うより、このころまではどうやらイギリスとフランスの国境は確定していず、イギリスに於いても統治階級はフランス語を話していたと聴きます。つまり国家の争いと云うより、宗派争いに貴族や騎士階級の利害関係が重なったものだったようです。それでいまでもフランスのイギリスよりの二つの半島の名前をブルターニュ、ノルマンディーと云うのですね。最終的にイギリスがフランスにおける領有権を諦めるのもノルマンディーの確保をめぐる戦いに於いてでした。その頃フランス側の国民運動的な精神的起爆剤となったのがあの有名なジャンヌ・ダルクであった、と云う訳です。

 こうした経緯を綴るとさも遠い異国の宗教事情のように考えられるのですが、全然無関係ではなくて、先日訪れた池袋の立教大学などはイギリス国教会に連なるミッションスクールであることを教わりました。また、私の子供たちが通った西南学院は分離派、つまりイギリス国教会から分離してアメリカに渡ったという起源を持つバプテスト派のミッションだったのですね。それでいつの間にか遠い異国の物語として読んでいたシェイクスピアやイギリスの歴史物語などがいつの間にか身近なところに話が及んでいたと云う訳で、何とも不思議な感じがいたします。
 それで忘れているわけではないグレアム・グリーンの『情事の終わり』。小説としても面白いのですが、私にはヨーロッパの一つの国における宗教事情が分からないながら我が国とは随分違うのだと云うことを考えさせられてとても面白かったのです。

 『情事の終わり』は、カソリック作家グレアム・グリーンと云う先立つ概念にあまり囚われずに良いのではないか、と考えています。
 この作品は、私の目には成人後カソリックに改宗した作家にとって、やはり生まれ育ったプロテスタントの環境が如何に根強かったか、という物語であるように読めました。これは原作者にとっては思いもかけない読み方でしょうし、それに現代イギリス社会における諸宗教の諸事情について私が何を知っていると云う訳でもないので、やはり思い付きの域を出ることはないでしょう。今日、イギリス社会に於いてカソリックであるということはひと階級クラスを下げると云う意味があるようにも聴きます。つまりマジョリティーを外れてアウトサイダー的な立場に身を置くということになるのですね。とりわけグリーンのように成人してからの宗派変えと云うことになりますと、その自覚性が際立って問われるところです。

 またイギリス国教と云うものが無意識のうちに社会の中に齎している宗教的な雰囲気なるものについては、これは学べることではなくて実際にその社会に身を置いてみなければ分からないことです。これは伝統なり慣習によって時間によって堆積された目に見えない地層のようなものです。これについても私などは全く資格を欠いているので、やはり思い付きの域を出ることはないわけです。しかし悲観しているばかりでは話もすすみませんのでいよいよ本題に入ることにします。

 主人公ベンドリックスは、本当に「嫉妬」や神への「憎悪」と云う人間の大罪を通じて、例え裏口からではあれ天国の門の存在を、予兆やあるいは予感としてでも、理解したのでしょうか。物語の結末は、最終的には

「神がお勝ちになった」(p258)

 と、いうことであったにしても、二人の間に介在した固有な時間の人間的価値の不可侵性を信じてかろうじて自らの実存を支える、と云うところでベンドリックスの物語は終わっていたように思います。
 「AFFAIR」を翻訳者の田中西二郎さんが「情事」と云う日本語にしたのは、ベンドリックスの考えた愛の形が、終わりあるものとしての地上的な愛だったからだと作中に書いてあったからだ思います。他方二人を分けた愛、サラァの愛は終わりなきもの、形なきものとしての愛に他ならなかったのですから。こうして戦時下と空襲と云う、生と死が隣り合わせた非日常的な空間の中でこの物語は始まるのです。

 しかし、この物語は単に二人の思い描いた愛の形の相違を描いただけのものではありませんでした。ロンドンの町をドイツのV1型ロケット弾が襲ったあの空襲の夜、それは奇しくも二人が初めて二人が最初の夜を過ごした晩でもあったわけですが、神の神秘的顕現にまみえた彼女と神との間に交された契約が重かったのは、恋人の死を密かに望んでいたのかもしれないと云う罪の自覚でした。神は祭壇から静かにそれを見降ろしておられたのです。グリーンは大事なことを忘れておりますね。

それから今一つは、サラァに顕現する神なのですが、生贄の神!どうも古代の神を彷彿させるところがあるのです。この神は後に見るように妬みの神でもあります。古来人は神々に祈り願いを奉げてまいりました。祈りにも二種類あって、それが究極のものである場合は自分の一番大事なものを奉げて祈るわけです。つまり祈りをこの世に持ち来たらすためには人間であることができなくなるのです。それが神に愛されると云う意味なのです。サラァに降臨した神はどこか旧約の神の面影を曳きづっているように思われます。旧約の神は不在の神として、沈黙の神として遠くプロテスタントの神の中に一部再臨しているのだ、と考えるのは飛躍しすぎでしょうか。

 そしてあの問題になった空襲の夜、彼女が偶然にか飛び込んだ聖堂は、カソリックの寺院でした。堂内のその俗悪な雰囲気に彼女はかってのスペイン体験を思い出して嫌悪感すら感じます。司祭は流石に職業がらサラァに生じた聖的な体験の意義について理解します。「あなたは神と何を契約したのか」と、司祭は彼女の心理的な負荷を低減するためにこのように問うのです。この場面は原作にない映画からの引用です。原作と映画の相違は、単なる逸脱ではなく、原作の中にあった萌芽的なものの創意的解釈だと云うことに一応はしておきたいと思います。
 
 さて、ご存知に様にカソリックに於いては神と人間は直接には対峙する構造とはならず、その間に教会組織が仕組んだ位階制というものが介在します。つまり教会組織が神の啓示を一旦引き受けることで信者個人の心理的負荷の肩代わりしようとする配慮が認められるのです。彼女がこのようなカソリックの神に救いを求めたのは明らかでしょう。しかしこの神学的な位階制には世俗的なヒエラルキーもまた、倫理や道徳もまたぶら下がって付いて来るのですが、この段階では彼女はこれにはまだ気づいておりません。これがやがて後でボディフローのように利いてくるのですね。
 物語は、以下、このように続きます。