アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆志賀直哉 『小僧の神様・城の崎にて』アリアドネ・アーカイブスより

志賀直哉 『小僧の神様・城の崎にて』
2012-02-21 12:19:43
テーマ:文学と思想


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 『城の崎にて』や『小僧の神様』等を読むと、この作家が常に弱者の側に身を置こうとしてきた作家であることが解る。『城の崎にて』に出てくる一匹の蜂にしてもリンチに会う鼠にしても、そして偶然から命を落とす蠑?(いもり)にしても、彼らが生きる一様にみせる生きる姿勢の哀しさは人間の場合もまた変わらない。『小僧の神様』の仙吉もまた『城の崎にて』の小動物たちの一族なのであろうし、――失礼な表現なるが、志賀の私小説の題材とした一連の連作『痴情』や『山科の記憶』に出てくる非力な日本人の妻像についてもこのことは云える。彼らは皆、志賀の小説のあっては兄弟か親族のような濃い血縁関係にあるものなのである。かれらが志賀の小説世界の中で一様に光るのは、生きてあることの真剣さゆえにである。皮肉な云い方をすれば、人は何にほどか純粋に生きようとすればするほど、何ほどか第三者の眼には滑稽に映じる、それを知ってか知らずか私情を交えず描き出したところに志賀直哉の文学の魅力と云うものがある。

 

 小説家としての力量を示す、と云うことからすれば『小僧の神様』が群を抜いている。これは今更わたし等が言うべきことではない。死と生が劇的に暗転する『城の崎にて』も優れた小説である。同じ小動物の生態と云うか、生命の生き死にを描いたと云う意味では『濠端の住まい』はこれの姉妹編と考えて良い。『城の崎にて』自らが遭遇した不慮の事故からの幸運な生環を軸として、死の瀬戸際を大きくはみ出した小動物たちの自然界における無情な死を描いたように、ここでは殺された雌鳥や野良猫の無残な死が、切り落とされた親鳥の首や処刑に使われた囮籠は陽干しのために日差しに揺れている、非情な光景を通して野良猫の死をあえて描かないことに於いてその生あるものの不在を強調している。そして他方で、親鳥を亡くした雛鳥たちの、無邪気であるがゆえのおぼつかなさ、頼りない生態を哀感を込めて描いて、これはこれなりの仕上がりを示している。

 

 自然の中における小動物たちの優勝劣敗、適者生存に係るものとしての無残なる死を描いて一見、志賀の文学は日本的な無常観を描いた様にも思える。生き物たちの生態の背後に浮き出てくる自然の冷徹なる論理と掟を描いたようにもみえる。虐げるものより虐げれれる側に、治者の側であるよりも支配される弱者の側に一貫して見を置きたいと云う文学者・志賀直哉の姿勢は終生変わらなかったが、いっけんヒューマニズムにみえて実は必ずしもそうではない。志賀の文学観のなかには意識されざる階級性と云うものがある。『十一月三日の午後のこと』や『流行感冒』における志賀が見聞した下積みの者たちの生態は尊厳を奪われ、生物界における小動物たち以上に無残さの極限を示すものであるのだが、それを描く志賀の筆致がある種の人間的な温かさを失わないのは志賀の才能なのではなくて、実に彼が属した近代日本の階級性にあるのである。つまり自らは決して虐げられたり差別される側に置かれることはないと云う階級的距離感と文士的余裕が生み出した志賀文学の魅力を、つまりあの非情とも云える客観性と同居するユーモア、やや温かみのある人間としてのある種の”ゆとり”と達観、とを生んでいるのである。

 

 人はどのような理想も思想もはたまた人生観や世界観もまた、教養としてなら任意に持つことが出来る、あたかも持ち物であるように。しかしそれら個人的な感慨や思想がいったん自然や現実の優勝劣敗や適者生存の冷徹な論理を前にすると、その恣意性、根拠のなさが暴露されずにはおかない。『小僧の神様』の語り手に付き纏う、後ろめたさは、そこに由来する。云わば、インテリや上流階級にあるものの行為が単なる恣意性として、つまり自然の論理に反するものとして告発されるのである。これは一面では、富国強兵下の日本が生んだ近代のひずみ、階級格差の極端な二元化と云う現象が生んだ貧富の格差を前提とした社会を、ひとつの自然の冷徹な論理と二重合わせにしてみた歴史的・社会的事象の客観的な記述としても読むことが出来る。志賀直哉の文学は近代日本の断片としての叙事詩としても読むことができる。

 

 小説としての完成度はその透徹性、冷徹さに於いて『佐々木の場合』『赤西蠣太』『流行感冒』『冬の往来』などに極まっている。ここでは『小僧の神様』の私的温情としての姿勢をあえて描かないことに於いて際立っている。これらの諸作はいずれもヒロインたちの一途さに於いて記憶に残る。『佐々木の場合』の富の一途な融通のきかない倫理性、『赤西蠣太』の越本小江の至高至誠なるものとしての私情、『流行感冒』の下女たちの不器用な感情表現が齎す階級的断絶と不全観、そして『冬の往来』の薫さんの早産せざるを得なかった秘められた情熱など、その断絶観、疎外感が単なる人間としての違いを超えて、同時に階級格差として、あるいは男女格差として重ねて描き出されたことに於いて、志賀直哉の文学が単なる身辺ものを超えた客観性として、今日に於いてもなお読むに堪える文学として残されているのである。

 

 志賀直哉の文学が、人間を描くことに於いてではなく、近代日本における冷徹な階級性の現実を、貧富の格差が齎す心理的な格差を、そして女性を一度として人間として見ることがない「男性的作家」志賀直哉の作家的視点の偏り、階級的ヒエラルキー内部に生きるものとしての露骨な男女格差のイデオロギー性として、彼の文学的性格を規定し、構築したことは文学としての欠点になるのだろうか。差別され、蔑まれ、あるいは人としての尊厳を奪われ、優勝劣敗・適者生存の論理の儚い波間に消えていく弱者の群像を、自らは絶対安全な境地から描き続けた志賀直哉は人間として非難されるべきなのだろうか。常日頃は立派なことを云いながら妻を心理的にいたぶり続ける夫に対して妻は幾度となくそれを「手前勝手」と云う言葉で決めつける。夫はそれを「脅迫まがい」とまで憤慨し逆切れしかねないのだが、その激情が去った後は一転して妻に同情し自己嫌悪に陥る、こうしたくだらない文士的日常を夫は毎日だらだらと繰り返す。その思想性のなさは唖然とするほどのものがあるが、これを文学としてくだらないとは一概に言えないのである。

 

 語る主体としての小説家と語られる対象としての世界の間に横たわる絶対的疎遠観、絶対的断絶観は近代日本社会が西欧化の過程で同時に、その歪として生み出されたものだが、その距離感、疎外感を同時に自然の論理の冷徹な法則として語ったところに『城の崎にて』や『濠端の住まい』の無常観が、自然界の生と死の輪廻に翻弄される小動物たちの永遠なるものとしての世界が生まれたのに違いない。そして小動物と云うより虫けらと云う方が相応しい生き物たちの世界の中に、実は志賀が繰り返し飽くことなく描き出した使用人たちの世界、男女格差の世界を生きる女たちの世界、哀れな妻たちの世界も含まれるのであった、と云うことなのだろう。

 

 志賀の文学の本当の悲劇性は小動物や使用人たち、適者生存の波間に没する弱者の無残な生きざまにあるのではなく、小説を読み終ってもこの格差や差別が放置されたままで何らの交渉も成立しない、と云う点にある。志賀が社会活動家として有効な行為を取らなかったと云う意味ではなく、文学上の課題としても無為無策のままであった、と云う意味である。文学者としての志賀は彼が描いた主人公たちよりは余程知的でもあれば高尚でもあるのだが、自然界の格差に仮託された社会的・歴史的な格差を放置し、彼の生み出した主人公たちに対して、例えば夏目漱石の文学がそうであったようには指導し訓導するような素振りはみせない、むしろ自らが確立した文士的な世界に遠慮すると云うか、自然界の世界のあるがままを尊重し、それに対して禁欲的態度を自らに課す、と云うところに自然主義系の作家としての最後の矜持を見出しているかに見える。この禁欲的態度が志賀文学に対して一方では単なる恣意性を超えた自然主義系の作家としての疑似客観性と云うものを与え、他方では今日の読者からみれば文学として読む場合、物足りなく感じさせるのである。

 

 『小僧の神様』は、そう云う意味では志賀流の達観、というか頂点、自然主義的な認識論の世界を恣意性によって乗り越えようとしたところに、――つまり解りやすい表現をすれば善意によって乗り越えようとしたところに、その小説としての破綻と云うか、魅力も限界もともに感じさせる名作であるとは、一応は云えるであろう。