アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

『プルーストの部屋』を読む・Ⅱ アリアドネ・アーカイブスより

プルーストの部屋』を読む・Ⅱ
2013-01-17 09:11:07
テーマ:文学と思想

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/Jacques-Louis_David_-_The_Death_of_Socrates_-_Google_Art_Project.jpg/160px-Jacques-Louis_David_-_The_Death_of_Socrates_-_Google_Art_Project.jpg
                      ダヴィッド「ソクラテスの死」

 それでは、「時」に無残にも切断された断層を超えて、生を統一的に捉える観点はないのであろうか。人は所詮、相対論の虜であるほかはないのであろうか。プルーストの答えは、それは人間のレベルではあり得ない、と云うことになろうか。人は時の腐食作用の中で抗うように巨人族として死ぬ。相対主義は如何にして超えられるか。相対主義とは価値は相対的部分的であると説明するけれども、自らは「全体」の「外」に立つと云う古い形而上学的な誤りを犯している。もしかして、人間を部分として尊厳性を剥奪する「真理」とか「全体」とかは、有史以来人間が持つ誤りではないのか、宗教的言説のように。「科学」もまた、「真理」や「全体」に関わる限りに於いて、支配の装置、新たに中世的世界から埃を払って偽装された、新たな疑似「宗教」に過ぎないのではあるまいか。プルーストの、20世紀の新技術、写真、映画、レントゲン、自動車、飛行機等の新様式、新技術に対する執拗な関心は、真理観のパラダイム転換と云うことに関係している。『失われた時を求めて』に於いても真理観の転換が起きている。

 プルーストの小説に描かれた真理観とは、我々の「外」に、時間の「外」に何か永遠の真理、哲学的な言説のようなものを仮構することは誤りである、と云うことである。人は、ソクラテスのように命に代えて指示すべきもののための天空の「真理」などと云うものはない。死を贖うべき哲学的言説などと云うものはない(少なくとも言説としてはない、行為としては別だが。ソクラテスは文字を残さない)。人は偉大になるのではなく、偉大な瞬間の中を過ぎていくのであり、偉大な瞬間が自らの身体を貫いて過ぎていく。バーン・ジョーンズの分解された時の破片像のように、様々な生涯の断片の中を偉大なる瞬間が渡っていく。瞬間の輝きの中にしか人間の偉大さは顕現しない。永遠とは不滅ということではなく、滅び移ろうと云うことの中にしかない。この世に永遠などと云うものはひとつとしてなく、時の移ろいの中にもしかしたら、重ね合わせた画像のように、あぶり絵から浮き出して来る文様のように、時を超えたものについてわれわれは一変の小説を通して語り得るのかもしれない。しかしそれは人格を超えた時の様式、自然的な輪廻のレベルでの出来事であって、個的な自伝史としてはシートの動物誌の英雄たちを見舞う最後のように、荒野の中で無残な死を遂げる他はない、まるで時の殉教者のように。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Jacques-Louis_David_-_La_Mort_de_Marat.jpg/134px-Jacques-Louis_David_-_La_Mort_de_Marat.jpg
                  ダヴィッ「ジャン・ポール・マラーの死」

人は、バスタブの水面に浮かんだジャン・ポール・マラーの死のように、あるいはジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアのように、悲劇に先だって自らの死を死んで見せなければならないのかもしれない。水の通過儀礼、洗礼、時の甦りのために。

 ジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリアの死」

 


 時の中にあくまで内在しながら、様々に切断された時の断層を重ねたときに見えて来る、人と時計的時間を超えた、人間的生活の生業の様式に於いてのみ人は初めて永遠と云うことを語るべき位相にある自己を見出すことが出来るのかもしれない。様式とプルースト的な語りの文法に於いてこそ、もしかしたら永遠について語ることが出来るのかもしれない。しかしそれを語り伝えるべき所作、一篇のドキュメントを書くだけの時間は残されているのだろうか。落日に向かって、旅の終わりにあるように、人は自らの影に向かって歩を進める。影を跨いで追い抜くことはできない。しかし死は眼前に、直ぐ背後まで伯仲し、ひたひたと迫っている。否、死は既に眼前にある。死の後ろ姿を眼前に間近に見ながら、最後は両手を挙げて死のゴールにもつれ込むランナーのように、最終コーナーを曲がったの直線コースを追いつ抜かれつの死とのデッドヒートは最後まで続く、バーン・ジョーンズの分解された時の破片のように、連続写真に残されたゴールを切る判定記録のように・・・。


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Marcel_Proust_1900.jpg/200px-Marcel_Proust_1900.jpg
ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト
(Valentin-Louis-Georges-Eug?ne-Marcel Proust,
1871年7月10日 -1922年11月18日)