アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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プルーストとスノビズム アリアドネ・アーカイブスより

プルーストスノビズム
2013-01-17 19:48:27
テーマ:文学と思想

 スノビズムと云う言葉は通常、良い悪いの価値判断を伴っている。しかし元々、不在なるものへの憧憬、と云う風に考えれば、人間の実存を規定する当たり前の在り方になる。不在への願望が、その圏域から排除されてあると云う構造、そんな人為的な仕組みが成立した場合にのみ、所謂「スノビズム」が成立するにすぎない。前者は汎‐スノビズムとも云うべきものであり、自然の概念であり、狭義のスノビズムつまり排除の構造を持ったスノビズムは歴史・社会的概念である。

 プルーストの『失われた時を求めて』に於いてはスノビズムを、区別することなく用いている。またこの二つは本質的に区別することが出来ず、両義的である。もしスノビズムと云うものがないなら、そもそも不在なるもう一つの自己を求める実存の様式としての恋愛、と云う行為自身が成り立たないであろう。

 また、歴史、社会的なスノビズム概念とは、近代フランス社会においては、1910年代を境に二分され、第1期、第2期に区分されると云う。第1期スノビズムは、余暇人を背景としており、貴族社会と興隆するブルジョワ階級を背景として成立する。つまりハイソサエティの社会を望み得る位置、階級社会のヒエラルキー頂部にあることの特権性を前提している限りに於いて、部分的、局部的な現象と云える。プルーストが『失われた時を求めて』描いたのは主としてこのタイプのスノビズムである。

 第2期スノビズムと云うものは、大衆社会の成立以降に成立した現象である。ファッション、グルメやレストランの知識、学歴、社会的ステイタス、芸術的素養等が特徴づける。つまり現代では「聖人」以外の大半の善人がこの概念に含まれてしまう。

 プルーストが『失われた時を求めて』の中で、スノビズムの膨大なカタログ集を作成したのは、スノビズムが実存としての人間の存在様式であったからにほかならない。スノビズムは歪んだ観点と歪んだ立ち位置とを与えるが、それを知性や知識によって濾過されたものとしてではなく、人との出会いが齎す出会いの不思議さを固有な歪みとして、歪んで見えるがままの人間像を描いた点にある。プルーストが偉大であるのは、歪みをネガティブなものとしては捉えずに、両義的なものとして、歪みの中にこそ、人間の偉大さも卑小さもまた、現れていることを描いた点にある。

 『失われた時を求めて』においては、人間に代えてスノビズムが、つまり人間の存在様式が描かれる。個的な経験ではなく、ハーブ茶に浸したプチットマドレーヌの挿話や布ナプキンのこわばりが意味するように、経験の様式が個的な自伝史を超えて貫かれているのだ。プルーストが自伝小説ではなくフィクションを書いたと云う通説的な意味は、このような意味であると解釈することができる。自伝的事実の基づいて、それが作品にどう反映されたか、と云う実証的な照応関係の確認だけではない。

 それでは様式とは何か?それは建築史で意味するような歴史主義的なカタログ集成のことではない。それは基本構造や骨組に外側から張りぼてのように張り付けられる表面=ファサードのことではない。作者がいて、読者がいる、当たり前のことだが、その両者が出会う場所、それが「様式」なのである。プルーストは大作末尾の「見出された時」においてしばしば「魂」について言及した。魂こそ、主観と客観を超えるものとしての様式、実存の等価性としての様式だったのである。様式とは、なぜかアリストテレスの「形相」が概念に似ている。

 人の生き方が固有の「信念」として貫かれているのではない。「信念」が人生のエレメント‐化学元素によって貫かれているのだ。「信念」が、不連続の連続として、人がその時々に示す、生きることによって与えられた断面、人生の諸段階に生まれ生起した様々な諸相、個人を超えて複数の人間‐間に広がる広大な場所に占める諸相の遍在、人生のエレメント‐化学要素、仮初であろうとも人が生き得るとはそういう場所に於いてでしかない、まさに様式が個人の個的な自伝史を貫く、近代主義的な個人概念をを超えた、「感動の形式」によって、『失われた時を求めて』と云う一万枚の大作は、貫かれてあるのである。
 個人が、自我を超えるとはこういう意味である。