トマス・ハーディ『テス』――不完全であることを学ぶ文学 アリアドネ・アーカイブスより
トマス・ハーディ『テス』――不完全であることを学ぶ文学
2019-02-22 11:43:31
テーマ:文学と思想
トマス・ハーディの文学と云うと何か異種の異なった価値観の相互的な対立(産業革命後の中産階級や知識層と新興成金ならびに地代地主と「囲い込み」の結果零落した農民層)や軋轢が齎す悲劇と云う風に人生論風に読まれ方をしているようですが、私はそれに反発して、フィクションとしての重層性と構造性を備えた歴史的叙事詩的であることの世界文学的な意義について論じて来た訳でした。それで敢えて人生論風のテス・ダービフィールドの人となりや魅力については余り語らなかったのです。
しかし神話の世界からそっくり切り取られて出てきたともみえる19世紀ヴィクトリア王朝期のいち女性が、単に過去の歴史的存在であったり、神話と伝説にまで理想化された理念的存在であったかと云うと現代の社会のなかにも遍在的にいるような気がするのです。トマス・ハーディの文学の不思議さは、古めかしい装いのなかにも現代社会においてもその再現性が十分に予想される、ある種のリアリティに根差している、という点にあるのです。
テス・ダービフィールドの悲劇は、無知な環境に隷属されて統治の対象とされてた当時の民衆がそのような状態に長らく据え置かれていたにせよ、彼女のあまりに頑なな理念の固定化、純粋な結晶作用にありました。なされたことは取り返しがつかないことと云う固定観念が生涯付き纏い彼女を最後まで呪縛しました。もしここに教育の機会均等の条件があって、エンジェル・クレアとはまた違うタイプの知識人がいて彼女を導き、ルソー的な理念で啓蒙したらどうだったでしょうか。多分、彼女の魅力の大部分は失われたと思われます。抱いている価値観は古くても、自らを謙らせ、惜しむことなく与え続けると云う姿勢には何時の世も神に通じるものがあるからです。
女性の魅力とは、芸術と同じで価値観や思想の古い新しいには依存しないのです。罪無くして身籠る彼女はマリア様の末裔ですし、男性を誘惑して憚らない無意識のオーラはマグダラのマリアを彷彿とさせます。新約聖書が伝えるところによれば《復活》を最初に目撃するのは彼女ですし、一説によれば過去に娼婦にまで身を落とした不完全性ゆえに、人類最初に復活せる神を幻視することができたのです。例え肉体は穢れたものであろうとも、無垢であると云うこと、謙ることと云う以上の条件はないのです。無垢であり謙りと云う姿勢が、その身体的行為が齎す仰ぎ見る仰角と云う角度が、神を垣間見させる瞬間の、「顕神」と云う展望を選ばれし者に与えるのです。
トマス・ハーディの『テス』は、テス自身は変わることも変化することも変容することもなく昔のままであるのですが、彼女を取り巻く周辺の人物は自分自身の不完全さの認識を通してテスの受難劇にそれぞれの流儀で参画していきます。
その代表が、例えば反教権主義的なエンジェル・クレアです。彼の理想主義は強張ったガチガチの教条主義に代えて近代の理念を対比させるのですが、完全を求める理念的潔癖が生身の存在を許容しえないのです。後に彼は彼が愛していたのは生身のテスではなく概念としてのピュアさであることにようやく気が付きます。贖罪の気持ちは、女が愛のため殺人すら犯してしまったという事態に立ち至ってもこの段階での彼はもはや驚くことはありません。殺人を肯定できる論理や言い訳があるとは思いませんが、彼が最後に受け取った天啓とも云える任務は、子供のような無垢さの世界のなかにテスを葬って遣ることでした。
変化は、当然歩むべき道と確信していた聖職者の道を外れた三男のエンジェル・クレアに大学教育を受けさせなかったクレア家の両親にも訪れます。福音書主義的な厳格なプロテスタントの父親には、単に教理・教条に従順であると云う厳格さの他に、極端な不運に於いては憐憫の情を持って接すると云う本来の徳性に目覚めて行くがカ所がありますし、傍にあって長年夫を尊敬と敬愛の眼差しで見守り従ってきた妻であるクレア夫人に於いてもまた、転機は訪れます。ブラジルでの移民生活に疲労困憊して病人として帰ってきた息子を見て、果たして自分たちの教育は正しかっただろうか、と夫に告げます。肉体的にも精神的な意味に於いても、危うい綱渡りじみた死の淵の円周を彷徨う息子を救うためならばあらゆる教条を自分は投げ捨てる用意があるだろう、と云う決意を予感として持つに至ります。雄大な叙事詩『テス』のなかでも出番は少ないのですが彼女は最も魅力的な人物のひとりと云ってよいでしょう。クレア家を訪れたテスが、控えめであると云う彼女の生来の徳性ゆえに、気後れから彼女に会えないで虚しく引き返すことこそ、この物語の最大の不運、テスの悲劇があったと考えてよいでしょう。クレア夫人こそが女の直感故に、おそらくはテスを救うことが可能だったのです。
この小説を読みながら思ったのは、ハーディが最初に考えた題名が、too late 遅すぎた、つまり手遅れである、と云う意味だったと言います。私たちは物事を考える場合に、重要な課題と直感した場合は、正面に向き直ってでもお節介でも一歩しゃしゃり出なければならない、気持ちを振り起し揺り起こしてでもそうすべきだ、とこの小説を読みながら感じるのです。
『ダーバヴィル家のテス』の世界を生きる登場人物たちの欠点は、彼らの決断が何時も遅すぎることです。何か根底的な意味での自信のなさがあって、産業革命後の中下層市民を巻き込みつつあった不全感、存在の根源的揺らぎ、物事を成し遂げると云う感性にいずれも誰もが欠けているのです。旧時代の価値規範では美徳でありえた遠慮深さや慎ましさ、謙りの精神がそのまま美徳としては通用せずに、次第に時代遅れになりつつある、そうした時代を舞台に描かれているのです。
しかしながら不完全であること、不完全であることは完全であることに勝る、これがおそらくは雄渾なヴィクトリア王朝期の叙事詩『ダーバヴィル家のテス』の目立たないテーマである、と思います。
そして他方において、清純な女、つまりその行為が無償であること、すなわち愛ゆえに自らの存在を常に贖いの対象としか考えず、自らの生命を溢れる血潮のように流しさせて悔いることのないテスの純粋な行為もまた、その価値観の古めかしさにもかかわらず歴史と時代を超えるのです。「清純な女」であると云うことを何か嫁入り道具のように考えている乙女の健気さ、テスの純愛物語は神話や伝説が持つこの世とは隔離され理想化され特権化された世界のことではなく、それは思い出のように、見ようとさへすれば私たちの周辺にいまもなお現に生きていて、テスは遍在的にあるということなのです。
物語の終わりで、失意のエンジェル・クレアは町を逃れて森に向かう一本道を歩くのですが、一か所展望が気が利くところに差し掛かかって人生を顧みるように振り返ります。彼は一直線に延びた道の彼方に定かならぬ染みのような灰色に滲むような黒点を認めます。それは次第に彼を追って迫ってくるテスの影であると了解するわけですが、この場面は刺殺したアレックスの血痕が床に染みて下階の天上の赤い染み――赤いハート型の染みとなって現象する先の場面と対になっています。つまり赤い染みと黒い斑点が生と死に対応し、それが死と生に呼応し、テスにとってのこの世での最後の見納めともなるであろう、処刑台の黒色の旗の震えるようなはためきのなかにオーバーラップしていき、死の凱歌によってしか果たされなかった「神の戯れ」への応答――本文の掉尾を飾る作者トマス・ハーディの詞による――歯車が掛け違えたことからくる自らの不運に対抗できなかった、この荘重にして重厚なエルガーの音楽を彷彿とさせるイギリス田園文学の記念碑的叙事詩、近代文明に歯向かったウェセクスの女神テス・ダーバヴィルの、ならびに太古の神にしてケルトの妖精、遥かに遠く、ブリトンの女王ボアディケアの追憶に奉げられた雄渾にして雄大な荘重劇、ウェセクスの叙事詩を締めくくっているのです。