アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『デイジー・ミラー』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『デイジー・ミラー』
2013-05-26 11:15:44
テーマ:文学と思想


・ ヘンリー・ジェイムズはこの小説の主人公ウィンターボーン――変な名前?――につてこのように、読者向けの紹介をしている。

”年齢は二十七歳。・・・・・ジュネーブで「勉学中」ということであった。・・・・・(またある人の噂では、彼があれほど長期にわたってジュネーヴを離れないのは、そこに住むある婦人、外国人で年上の女性にすっかり心を奪われているからだ、ということになっている”(『デイジー・ミラー』本分「1」より)

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・ デイジー・ミラー、雛菊の娘と云う意味でしょうか。ヘンリー・ジェイムズにおけるヨーロッパ的なもの大陸の伝統的なものと、アメリカ的な無垢なるものとの対立という構図が早くも現れる初期の作品で、一番ポピュラーな作品のようですね。取りあえずヘンリー・ジェイムズが何であるかを知りたいと云うのであればこの作品と何本か映画化されたものを見るとよいのでしょうね。原作のあの晦渋な文体を思うにつれ、映画化はいっけん不可能かと思えるのですが、映画は映画なりの良さがあるようです。特に舞台装置とカットを上手く使えば、ジェイムズの神秘的な世界をある程度は表現できるようだと感じています。

 主人公は若き日のジェイムズその人を思わせるウィンターボーン(本当に変な名前ですね)、長年ジュネーブに住んで、その理由は「勉学」あるいはバルザックもどきのさる未亡人への神秘的な思慕にあるのではないかと、冗談交じりに仲間内では噂されている独身の男が主人公なのですが、この町が遠い昔カルヴァン派の拠点であったこともさりげなくジェイムズは語ります。つまりジェイムズの文学には、清教徒的な無垢なるものの概念があると云うことです。
 この無垢なるものをめぐってドラマは展開します。レマン湖の、ジュネーヴとは反対側にあるヴェヴェーと云う避暑地、そこのホテルの庭園でふとした偶然から出会ったアニー・P・ミラーと云う美少女、美少女と云って良いのでしょうね、十代とありますから。この避暑地のあたりの上流階級の雰囲気とは異質な、異質と云うよりも超越したような少女と知り合いになり、その純粋と云うか無防備な姿勢に誘われてレマン湖の古城を訪れます。生涯忘れないほどの印象を残す(――小説の登場人物たちに取って)美しい場面です。ヒーローはジュネーヴで世話になっている伯母の処を長期間留守には出来ないのでジュネーブに帰っていくのですが、イタリアに旅立つと云うミラー家の人々とローマでの当てにならない再会の約束をします。
 なぜ、当てにならない約束かと云うと、伯母の話ではミラー家はニューヨークにおける社交界でも最下級に属し、まともな紳士淑女はお付き合いを願わない人たちだと云うのです。それでこちらも成り行きからローマに滞在することになるのですが積極的に出向こうとはせず、知り合いのウォーカー夫人――これも変な名前ですね――の家を訪問したおりに偶然にミラー家の人々と再会し、交際が復活することになります。しかしデイジー嬢との交渉においてはヒーローの望んだようなロマンスには発展せずに、ここでも彼女はイタリアの伊達男との自由奔放な生活を繰り広げ、それが在ローマのアメリカ人社会の人たちの顰蹙と軽蔑を買い、不潔なコロシアムの夜の散策と云う不用意な行動によって病原菌を背負い込んでしまいあっけなくデイジーは死んでしまう、と云うお話です。(なぜ夜のコロシアムが病原菌に感染されやすい場所であるのかの説明はなく、多分、破壊されたコロシアムのあちこちに生じた水たまりに蚊や蠅などの病原菌媒体が集中的に現れていた場所と云う意味でしょうか、何ぶん19世紀末期のローマが舞台なのですから)彼女の墓の傍らにはデイジーすなわち雛菊が咲いていた。主人公は初めて無垢さと云うものの意味を理解するのである。

 ここまでであればアメリカ人好みの、結末を別とすれば映画『ローマの休日』などと同工異曲の世界ですね。新興国アメリカはヨーロッパの伝統と対抗するときに、富みや権力を誇示するだけでは説得性を欠くために、何かと云うと純粋さや無垢さ、打算の無さと云うようなものを映画等の媒体で主張したがるのです。そうしたマイナスの要素を手に握りしめながら意地悪な読み方をするとこの小説がアメリカンイデオロギーの先駆的な小説であったことが理解できるのです。
 だだ、ジェイムズの優れている点は、先に述べた登場人物と場面を紹介する場合でもジュネーヴの由来であるとかニューヨークやローマで造るアメリカ人社会の背景を点景のようにとは言え、欠き忘れない点です。なぜなら終始自然児デイジーと主人公の間を隔てるものは彼の清教徒的な信仰のあり方、あるいはもって生まれた教養や素養というものにあったのでしょうし、ヒロインのミラー嬢を心理的に追い詰めていくのも、ヨーロッパではなくヨーロッパ化したアメリカ人社会の居留地的閉鎖性にあったのですから。その居留地アメリカ人社会の閉鎖性が如何なるヒロイズムに転嫁し得るかは『ローマの休日』の最後のテベレ河野乱闘場面に明らかです。たかがアメリカ人新聞記者でもローマでは大したものなのです。

 こうしたアメリカ人の潜在的優越感を前提にしなければ『ローマの休日』が楽しめないように、『デイジー・ミラー』もまた理解することができません。なぜ物語の最後の場面でアメリカ娘とイタリア青年との間に”婚約”と云う行為が行われていたか否かがかくも大事なことのように言われるのか、また埋葬を終えて立ち話をする主人公とイタリア青年との間でなにゆえ”無垢”なることをめぐって対話が交されるのか。
 翻訳者の行方昭夫氏は主人公のウィンターボーンの気持ちの変化に注目しています。最初彼のデイジーを見詰める眼差しは長年外国に暮らす青年としてのコスモポリタンに相応しいものでした。その眼差しが少しづ変わっていくのだと云うのです。一種のアメリカ型の厳格な、ニューイングランド気質と云うか、厳格さが戻って来るのです。この物語の悲劇は、デイジーが死ぬことにあるのではなく、主人公の彼が自分のこうした心の変化に気が付かないと云う点にあります。人は、生きていれば堕落するものです。人は経験を積むことで賢くはなるかもしれませんが、生を受容する能力としては堕落を免れない存在なのです。こうした人生観照の苦さが、雛菊のような娘の思い出と語られるところに、この小説の魅力があると思うのです。

 人は経験を積むことでよりよく生きることが出来るのか。この問いに対する回答は、”外国生活が長すぎましたから”と云うウィンターボーンの心弱き述懐で一部応えられています。そして結びの文章は、次のようです。

”・・・彼は再びジュネーヴに戻り、そこに滞在した。彼の長期滞在の動機については、そこからまったく矛盾する二つ所説明――ひとつは熱心に、「勉学中」というもの、もう一つは、ある賢い外国夫人に多大の関心を寄せているもの――が今も伝えられている。”(『デイジー・ミラー』最終部)

 つまり本質的に変わらなかった、と云うのである。それでは何のためにデイジーは死んだと云うのでしょうか。