アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画 『赤い靴』――人生論ふうに アリアドネ・アーカイブスより

映画 『赤い靴』――人生論ふうに
2014-04-14 22:28:59
テーマ:映画と演劇





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・ 映画の初めの方で、ヴィッキー(ヴィクトリア・ペイジ)の才能を予感したレールモントフは、なぜ生きるのか、と問う。ヴィッキーは、踊ることであると答える。深く頷いたレールモントフはそれは自分にとって運命であもると答える。運命とは、恣意的なあれこれの選択を超えて、到来するものの本質に従うと云う意味である。到来する本質に従うとは究極のものを目指さねば意味がない、と云う事でもある。

 映画は、新作創作バレエ『赤い靴』の制作をめぐって展開する。ヴっキーは『赤い靴』によって有名になり、『赤い靴』はヴィッキーによって有名になった。芸術興行に関わるプロディーサーと主演のプリマドンナの意地の張合いと、アンデルセンの原作そのままに死ぬまで踊り続けなければならなかった呪いのように、恋と芸術に引き裂かれてバルコニーから走って来る列車めがけて投身自殺をする、それまでの悲劇的なお話である。

 二人の主要人物に第三の人物が係って来る。『赤い靴』の音楽家ジュリアン・クラスターである。クラスターの才能は師匠の教授が盗用するほど音楽的なセンスに恵まれているのだが、彼は純粋芸術の立場から、レールモントフの芸術的興行の在り方、そして人間らしっく生きること、愛とは何かを問う。彼は、秘蔵の宝石のような存在であったヴィッキーを、彼が知らないところで愛し抜き、また彼が知らない世間と云う名の世界に彼女を連れ去ってしまう。

 面白いのは、映画の冒頭に置かれた、廉価な当日券に並ぶ長い列と、自由席に殺到するバレーファンの市民の群像である。俳優たちは学生にしてはやや老けてはいるものの、映画学校の生徒かそれに類する芸能世界の人間たちである。事実この日の新作バレーが始まるとそれを聴衆として聞きに来ていたジュリアン・クラスターは直ぐに自分の音楽の盗用であることを了解する。憤激の余りかれは決然と席をけるように会場を後にする。しかも、師匠の非条理をこともあろうにレールモントフに訴える手紙を密かに激情に駆られるまま書き、それを反対に嗜められるところから音楽家としての彼の運命が開けると云うのであるから、分からないものである。

 それからもう一つ、冒頭に置かれた最上段の特別廉価席に殺到する人々の気違いじみた、ややコミカルな混乱場面を描いた意味であるが、お気づきの方もあると思うが、音楽学校の生徒とバレー学校の生徒が応酬する場面がある。つまり音楽と云う純粋芸術が尊いのであるか、総合芸術としてのバレーには単に芸術には還元できない意味があるのか、と云う映画を通奏低音のように貫く共同監督パウエルとプレスバーガーの目に見えざる問いがある、と考えてよいだろう。
 この問いは、後半場面でも、ヴィッキーがバレリー名として生きるのか人間としての愛に生きるのか、レールモントフかジュリアン・クラスターを選ぶのかの最初の問いに立たされて後者を選び、そして愛に敗れて口惜しさのい余り自暴自棄になったレールモントフクラスターの音楽に対する酷評に対して、所詮バレー音楽などは芸術としては二流品に過ぎないと云う主張においても、この問いは繰り返されているのである。
 つまり音楽は純粋芸術として密かに人生の外で自立しうる可能性があるけれども、身体芸術としてのバレーや舞台芸術は人生を含み持たさなければ意味がないと云う、二様の芸術論の対立があるようにも見える。

 さて、映画をよく見ると、愛か芸術かなどと云う流布された二元論ではなくて、愛に仮託された二つの芸術の在り方が問われているのである。あるいは二つの芸術の在り方に重ねて語られる二つの愛の形式、その異質さが語られているのである。

 一度はレールモントフの芸術(興行)至上主義に勝ちながら、何故二度目にはジュリアン・クラスターは敗者にならなければならないのであろうか。この二人の愛の違いを、二人の共同監督は映画の背景となった世紀末前後の時代背景に登場した新種の乗り物、機関車と車、あるいは機関車と伝統的な乗り物である馬車によって象徴している。この映画において乗り物の種別が卓越した象徴的な異議を有することは、西南学院大学の栗原詩子准教授の示唆を受けている。
 栗原准教授によれば、機関車は常にレールモントフとともにヒロインの運命の転回点に必ずと云っていいほど現れる。彼女をデビューさせたパリに運んだのも汽車であり、彼女の命を絶つのも機関車である。

 一方、最愛の恋人ジュリアン・クラスターは、乗用車もしくは馬車の移動によって描かれる。自動車は馬車をテクノロジーの進化によって置き換えたにすぎず、日常性の延長に、それを効率化させたところに成立するに過ぎない。つまり徒歩と、馬車と車は、量的には全く異なった空間を成立させるが質的には変わらないのである。
 他方汽車はどうかと云うと、それは近代映画でしばしば駅舎が出会いと別れの場面として描かれたように、そこで日常性が一旦切れ、異化されたまた別の時間が立ち上がって来る、超越的な空間なのである。最後に、レールモントフがジュリアン・クラスターの前にしてヴィッキーを口説く最後の決め台詞は、極めることなくして何の人生か!と云う事なのである。

 この映画の凄いところは、平凡な愛は人間を殺してしまう事がある、と云う事を暗示的に描いている点にある。クラスターは芸術家としては一流かもしれないが愛を語る人間としては俗物に過ぎない。彼の語る愛は月並みで、ある種の卓越した人間の才能を枯らしてしまう。何となれば、彼はヴィッキーに結婚後は踊ることを断念させ、通常の妻の証ををのみ健全な愛と勘違いしていたと云うではないか。レールモントフの、非人間的な口説きが、半ばは単なる利己性を超えているのにはそういう意味がある。レールモントフはジュリアンに云う、――君はヴィッキーを幸せにできたか?と。愛か芸術かなどと云う事ではないに違いない。そこにおいてこそ自分が自分自身になれる場所、その場が愛なのかバレーなのかと問ういているのである。

 この映画の更に凄いところは、男たちの世界を他方において女の世界の固有さを描いた点にある。レールモントフの生き方は人間的な喜怒哀楽の感情などは芸術的世界の持つ厳粛さの前では席を譲るべきであると云う信念である。彼の信念は初めの部分で伯爵夫人家でヴィッキーと初めて顔合わせする場面での社交辞令の支配する世界に対する彼の軽蔑によって描かれる。二番目は、結婚することになるプリマドンナを首座から外す彼の冷徹さによっても、これでもかと云うほどこの映画では強調して描かれている。

 レールモントフの生き方はこの映画ではネガティブに描かれているが、それは元々人生を目的志向的に考える男の世界に固有の形式であり、レールモントフの場合はそれが誇張され、カルカチュア化されたものであるに過ぎない。ジュリアンもまた、同じ生き方をしているのである。月夜の窓辺で別々のベッドで自分自身の心の空洞について見入る妻の寂寥に気付かないほど彼は音楽の虜になってなってしまっている。いかなる時も、真夜中だろうと、霊感が響けば彼は部屋を抜け出してピアノルームに入って、その響きを実際の音感として確かめざるを得ない。芸術家としては一流でも人間としては三流、このいい方が語弊があると云うならば少なくとも愛する人間としては凡庸な人間なのであった。芸術とは所詮職人なのであるから天が与えた才能によって比類ない卓越に達することが出来る。しかし彼が同時に凡庸な人間であることも可能なのである。

 しかもあろうことか、陳腐な愛が、月並みの平凡な愛と生き方がこの世では至高の価値として奨励され、他方批判的には描かれているけれどもレールモントフの芸術興行に向けられた職人的な偏執さや芸術至上主義的な冷酷さですら、至芸に至る道として、非凡でさえあれば称賛に値するものとされているのである。根性ものが馬鹿受けする風土があるということについては御存じの向きもあろうかと思う。
 
 男優位の価値観が問題であるのではない。かかる価値観が、特段意識させることなく公共的な言語として、規範として世の中を律していると云う事、このような価値観が支配している世の中を生きようとしたときに、必然的に女として生きる感性はある種の悲劇的な自問自答の前に立たされなければならないと云う事にこそ、『赤い靴』が描いた本当の悲劇がある。

 ヨーロッパ社会に於いては、世俗界と精神的世界に通底する規範的価値意識、とりわけ公共性を言語として律するものは国民国家であり、あるいはそれ以上に教会である。この映画の中で教会と黒い僧衣姿の牧師が重要な役割を演じているのは理由なしとしない。牧師の黒々として硬直存在は、ヴィッキーが世俗に阻まれたものが最終的に教会に救いを求めようとする行為に対して、あろうことか石段の前で牧師がとる受難の象徴的な形式、つまりキリストが磔刑に架けられたあの時の両手を広げた姿は同時に、ヴィッキーの眼には教会に救いを求めること、世俗に阻まれたものが究極的な意味での最後に取りえる人間行動の形式ーー受難、を阻止する姿とも見えたのである。黒に対する「赤」、これこそアンデルセンが言語以前の抗議として籠めた、『マッチ売りの少女』にも通底する「赤」い靴の象徴的意味でもあった。

 その両手を硬直するように大きく広げたキリストの影絵には、ジュリアンとの平凡な愛に生きる世界への退路を断ったレールモントフの冷酷な姿が、そしてそれに重なるように功名心のために素朴な愛を裏切った、共同体の外の境界域に疎外されたものとしての、世俗ー宗教の二つの世界から同時に阻まれたものとしての孤独が隠されている。
 ヴィッキーの疎外態は、原作童話『赤い靴』が、赤い靴をいつも身につ行けていたくて、教会の礼拝でもそれを履き、ついには最愛の義母の死の葬儀ですら赤い靴を履いて世の中の指弾を浴びる、赤い靴を履いた少女の、物言わぬ悲劇と対応している。

 「赤い靴」と云う事で言わんとしていることは、赤と云う色が、本来ぎりぎりの人間としてのプロテストの行為であると云う事である。世間のしがらみや思惑に抗して自分らしく生きようとするとき、赤はその象徴として本人の前に現れる。赤は激情であり、情熱である以前に、沈黙の意思表示、沈黙の言語なのである。

 ヴィッキーは愛とバレーが招く唯一性の間で、どうしていいか分からずに死を選ぶ。機関車と云う名の近代兵器は、その異化的な効果で彼女を凡庸なることどもからこの世ならざる世界へと運び去る。
 芸術的興行の世界にも、純粋芸術の世界にも、素朴な愛の世界にも、そして世俗的世界から阻まれてあるあり方の中で、宗教的世界からも阻まれて、虚しく教会の石段の前で息絶える、映画内演劇、バレー劇『赤い靴』の結末そのままのように。

 パウエル・プレスバーガー共同監督による映画『赤い靴』のエンディングは、『赤い靴』の初演そのままに、主役はなしに、スポットライトだけが相手方の男性ダンサーに保護されるように支えられて、軽やかに無音で演じる、在りし日のヴィクトリア・ペイジの雄姿を、視ることのできるほどのものの眼には見える、不可視の幻想として彷彿とさせながら・・・終わる。

 靴を脱がせて!

 

〚お断り〛
 この映画は、芸術論、人生論的に語り解釈するだけの映画ではない。それ以前に、モイラ・シアラーによって演じられるマーキュリー劇場の初舞台の場面や、15分にも及ぶ劇中劇『赤い靴』のソロバレーの場面の美しさは際立っている。
 また映画の中ではクラスターの手になるとされる各種のバレー音楽と、当時――1948年のテクニカルカラーの撮影技術、とりわけ、初めてヒロインが主役を受けにレールモントフのところに行く、古代の神殿か廃墟じみた、半ば草が生い茂る、長大な石段の場面が素晴らしい。どこからともなく、スクリーンの背後ではオペラの詠唱が低く流れているようでもあり、ヴィッキーもこの場面では、まるでオペラのプリマドンナのように長いドレスの裳を引き摺り、風に靡かせながら女王のような姿で石段を一歩一歩のぼりつめる。リゾートホテルから別荘に至る道行を、オープンカーによる移動と徒歩による階段を上る所作を通して、レールモントフの主宰する芸術の王国に入るべく自らを浄化していくのだが、貴族性――伯爵夫人の姪でもあると云う精神の貴族性への帰属を自ら理解する場面でもある。この場面は同時に、レールモントフにとってヴィッキーが偉大なる例外ーーなぜなら彼の信念によればプロフェッショナルは自らの「商品」に抒情的な関心を抱いてはならないのであるから――であったことを意味している。この点を逆にジュリアン・クラスターの方から言えば、ヴィッキーの愛が持つ愛の潜在的な貴族性を理解しなかった点に二人の間の愛の破局があったことをも物語っている。
 とは言え、この映画の素晴らしさについては、すでに書かれていることでもあるし、あえて書く動意を得なかったが、諸芸術の統合としての映画や舞台芸術が目指した美の究極の顕現と再現が、同時に観念的、哲学的な関心にも堪え得る論理性をも得た作品として出来上がっている、と云う事なのである。
 以上は、この映画の美しさ、映画を見る楽しみについて十分には語りえなかった文章の非力さに対する弁解である。