アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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独歩と荷風に描かれた自然 アリアドネ・アーカイブスより

独歩と荷風に描かれた自然
2014-05-12 14:52:58
テーマ:文学と思想




 国木田独歩の『武蔵野』の自然概念を分かりやすく言えば、なぜ彼以前の日本人は武蔵野の雑木林や里山風景の美を見出し得なかったか、と云う事になるだろうと思う。
 それは独歩が与えた武蔵野の地理的な領域の定義にも現れている。無論『武蔵野』には雑木林の彼方に沈む夕日に照らされた富士山を描いた場面もあるけれども、武蔵野の始まりを都会の人家つきるところ、茶店や村の郵便局などが点在する生活の匂いのするところ、当時の目黒や芝、渋谷村を含めていたことからもうかがえる。
 つまり独歩の言う自然の定義とは、必ずしも人為の加わっていない天然の自然、ナチュラルとしての自然ではなくて、空間概念としては都会と田舎が接するところ、時間概念としては近代化の波によって日々浸食を受けつつある古の概念と近代の概念が相互浸透する、時間性としては封建制でも近代でもない独特の概念であったことがうかがわれるであろう。
 
 独歩の天然自然を必ずしも自然とは考えない考え方は、独歩の考えた自然概念の固有さを次の二点に於いて要約できる。
 第一は、欧米の啓蒙期以降の世界観が生んだ、何よりも人の手が加えられていない自然のみが自然の全てであるのか、と云う問いである。この問いはより付き進めていえば、文化文明と対比的に語られるところのナチュラルな自然とは半ばは文明社会が生んだ作為、理念的な抽象概念に過ぎないのではないのかと云う問いでもある。もしそうであるならば、欧米の自然保護団体の活動を根底のところで規定する思想性は失われる。むしろ思想史的に意義を有するのは自然と人工の相互作用を通して長年月にわたって形成されてきた文化的土壌のようなものを言うのではないのか。かかる全一的な自然の人間の交互作用を恣意的に人間的な観点から切断したところに不自然を見ようとする、「自然なありかた」をもって自然なりとする考え方もありうるのではないのか、そう問いかけているように思われる。

 さて、永井荷風の自然概念もまたナチュラルな自然と云うものを目指しているわけではない。彼は長年にわたって江戸人が造り上げた名所図会的な都市と自然のありかたを論じて、一個の唯名論を唱えているように見える。ここに云う唯名論とは、実体はなくても名前を名付けられることによってはじめて成立し始めるような、言語と文化の卓越に於いて成立する世界観である。永井荷風の文学の魅力と云うものは、何よりも言語に対する信頼がなくては叶わなかっただろう。かれは文明と人間は信じなかったけれども言葉を疑いはしなかった。

 他方、独歩に於いては荷風に於いて至上命題であるかに見えた言語こそ、花鳥風月の歴史文化的な枠踏みを通してみる、単に恣意的な概念的作為、形式主義であるように思われた。国木田独歩の自然概念の固有さの二番目はこの点に言及することある。独歩の生涯は孤独で悲惨なものがあったけれども、彼の姿勢は根本的なところでは反時代的でも反社会的でもなかった。興味の方向こそ違っていても、彼によって見出された武蔵野の自然の見出し方の中に於いて、数学も自然科学も受け入れる準備が出来ていたと云うべきである。
 一方、荷風が目指したのは、欧米流のナチュラルとしての自然概念を基礎に於いた文化文明がいかなる野蛮さを秘めているかへの警鐘と批判的行為であった。彼はナチュラルの自然概念の底の浅さ、平板さをあざ笑う事によって、近代日本の愚劣さ軽薄さだけでなく、欧米の文化文明の下品さにも無自覚ではありえなかった。ナチュラルの自然概念を基礎としたものの見方に現れる冷徹さ冷酷さ、野蛮さ下品さは『腕くらべ』の中に余すことなく描かれていると考えてよい。
 荷風唯名論とは、単に言葉は個物に張られた名前ではなかった。言葉は魂であり、その言霊の威力を用いて近代日本の優勝劣敗、適者生存の理から漏れ出てくる人々の小さな魂を救う事にあった。どこに名もなき娼婦をあれほどの言葉の感激と花束とで飾り付けると云う行為を為したものが荷風意外にいたであろうか。荷風が愛読したフランスの『椿姫』に於いてすら、ヴィオレッタは身は娼婦でも精神的には貴婦人であり天使であることを否定はしない。しかし荷風の描く女たちは天使的な時間の在りかたを理解できるにしても身は世俗や六道の世界に身を沈めること、とどまり続けることを由とする小さな生き物たちばかりなのである。彼女たちには天賦の権利などはない。なぜなら彼女たちは人間以前なのであるから。