アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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佐多稲子の『私の東京地図』アリアドネ・アーカイブスより

佐多稲子の『私の東京地図』
2014-05-12 20:48:59
テーマ:文学と思想




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  ほとんど30年以上も前に読んで、文体の一種独特の抑揚を秘めた懐かしい語り口以外には、語られたエピソードの細々はほとんど忘却していた。今回読み直して感じたのは、後半、戦前戦中期の非合法活動に参画した時期の言動についてであった。

 この小説は連作集ともいうべきで、ある意味では自伝小説とも取れるのであるが、通常の回想録や自伝と違うのは必ずしも著作の意図が、自らの紆余曲折を語る事にはなかったと云う点だろう。そういう意味では自伝に必須な折節の、転回点と云いうべき部分は省略されているかぼかされていて、重大な出来事の終わった後か手前の、漠然とした感慨としてのみ書かれていると云うのは、確かに自伝文学的な関心から佐多文学に接近しようと試みる者にとっては物足りないところもあろう。しかしそういう向きには佐多稲子は他にも沢山自伝的な要素に富む著作を書いているので、容易に関心や好奇心を補う事は可能だろう。

 『私の東京地図』は大まかに要約すれば、前半と後半に分けられる。今回の再読にあたって後半が特出して興味深かったことは先に書いた。しかし三十数年も前に読んだ時の印象、この書に特有の、独特としか言えない文体の魅力についても色あせないものがあって、事実この小説の価値は文体の固有さにあると云ってよい。
 この小説の前半は、名もなき東京と人々の記憶をとどめた関東大震災までを語る場面ではないかと考える。

 しからば佐多は固有な文体によって何を語ろうとしたのか。それは震災によって失われた東京、震災によって失われた名もなき人たちの面影を伝えることにあったと思われる。
 この小説の巻頭を飾る序章的な位置に「版画」と云う章立てされた文章があるが、若死にした佐多の叔父にあたる人物の死が語られている。早稲田を中途で退学し、何物にもなれなかったし何物でもありえなかった万年青年の死であるが、窮屈な棺桶に押し込められて無造作に運び出される場面は、もしかして佐多文学の原点はここにあったのではないかと思わせるものがあった。佐多稲子の文学は、こうした先行する先人の、志を得なかったものたちの記憶を伝える委託としての文学と云う側面を持っていたのではなかったか。佐多稲子は1946年、戦後を出発するにあたってどうしても歴史の波間に消えた名もなき者たちの死と、いまはない自分が歩いた細々とした遠くて懐かしい東京の道を、その道の周辺に記憶の眩暈か陽炎のように揺らめく時の姿を留めたいと思ったのである。

 彼女はこうした語り部としての観点から自らの歩いた道、向島、浅草、上野、日本橋、神楽坂、田端、王子の折節を語った。高ぶることもなく淡々と同一の語り口で、貧しさと悲運の中であえぎ波間に姿を消していく人々を語った。永井荷風の『日和下駄』と違っているのは、語り手が語られる対象と同一の境遇を過去に経験していると云う意味で、むしろ彼女は樋口一葉のこそ後継者であったと云うべきだろう。
 ともあれ、近代化の東京を語って荷風の『日和下駄』と『東京地図』を最も美しいものだとわたしは信じている。

 この小説の後半は何処からと云う事は言えないのだが、わたしなりに関東大震災をもって前半は終わると信じている。それはエピソードで言えば芥川竜之介の死から小林多喜二の死、までである。死ぬ直前の芥川は不謹慎にも一度自殺の経験がある佐多に生き返ったものの気持ちを聴いてみたいなどよと述べたそうである。生き延びる何らかの言い訳を芥川が探していたと見れば哀れである。小林多喜二については、獄中で虐殺された彼の痣だらけの遺体を引き取りに行った仲間の数人内の一人に佐多も入っている。多喜二の死の報告と、葬式で用いられた献花を細やかな花束にして獄中の夫や仲間たちに届けに行く場面では、転向と云う概念すら知らない無知さ加減であった。この無知さ加減と云うか世間知らずと云うか戦前の党員作家の妻としての視界の狭さは、半ば庶民としての彼女の人の好さ信じやすさ無防備さの証であって、権力に抵抗し続けることが困難な状況において、無自覚にも従軍作家として外地行きを受託し、それが戦後彼女の際立った違反行為として民主戦線のスタートラインに立てなかった悔いとして語られることにもなる。世を挙げて我先にと民主主義に対する標榜を逞しくもあるいは無節操にも由とした時代に、彼女は仲間内から疎外を受けるのである。つい昨日まで仲間と信じていたものたちからの扱いは彼女を傷つけただろうと思う。その気持ちの屈折が、侘しくて懐かしい、いまはなき東京の風景と市井の人々を語るこの連作集に結実したと見るべきだろう。

 文庫本で二百ページを少し超える程度の随筆めいた回顧録と云うか、個人史経緯を兼ねた私設版東京案内地図、文章は平易、表現は簡潔であるにもかかわらず読み進めなくて難渋した、夜半のほの暗い照明をたよりに幾度も幾度も休みながら、休憩をはさみながら読み継いだ。この読み継ぐ難渋さと苦渋は、彼女の東京を経めぐった三十年に及ぶ歩みそのもののようでもあった。