アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

プルースト『スワンの家の方へ』――『失われた時を求めて・第一巻』を読み直して アリアドネ・アーカイブスより

プルースト『スワンの家の方へ』――『失われた時を求めて・第一巻』を読み直して
2018-07-05 22:41:41
テーマ:文学と思想


 『スワンの家の方』とは、プルーストの架空の故郷、コンブレーに住んでいたプルースト家の家人たちが恒例に歩いた二つの散歩道、――毎年プルースト家が春の復活祭の時などに休暇を過ごすために訪れた時に限られるのだが――『ゲルマンとの方」と対になると対になる逍遥の道の、片方の道のことだとされている。勿論、小説自体が自伝的ではあるとはいえ、虚構なのであるから、二つに分岐して行くプルーストの二つの遊歩道の道もまた架空のものである。

 『スワンの家の方』とは、その道がほどなく歩いて行くとスワン家の別荘の生垣に沿った道であり、季節ともなれば山査子が咲き誇る、輝かしくも物悲しい人生の寂しさを著者に教えてくれた故郷の道である。彼は、この道を通じて、シャルル・スワン氏を、その娘の初恋のひとジルベルト・スワンを、そして第一巻の長大な挿入話『スワンの恋』の最大の登場人物のひとりである、オデット・スワンを知るようになる。長大な『失われた時を求めて』を支える重要な屋台骨のひとつとされるものである。
 他方、『ゲルマンとの方』は、プルースト家の小市民的な哀歓の世界を超えた歴史や伝説の世界であり、非情で苛烈な、終末論的な世界でもある。こちらの方の話は主として第三巻『ゲルマンと侯爵夫人』において述べられることになるので、ここでは割愛する。
 家人によって仮に名付けられた『スワンの家の方』と『ゲルマンとの方』という二つの世界が対象性をもって、『失われた時を求めて』と云う、蜃気楼にもにた大伽藍を支える二つの巨大なヴォールトになっていることを確認すれば、この段階では十分だろう。この二つの散歩道と、散歩道をめぐる二つの世界が、一方はミクロコスモスのような世界を暗示し、他方がマクロコスモスのような大世界を象徴し、しかもミクロとマクロが論理的には処す越空間のなかで拮抗しつつ釣り合い関係にある、という認識もまた、重要だろう。

 それはさておき、そのミクロコスモスであるところの『スワンの家の方』をようやく読み終えた。既にこの第一巻については、その第一部「コンブレー」について計十回に渡って要約を試みたところであった。その後も、旅にでるやら映画鑑賞に足を運ぶやらで、読書は切れ切れになった。東京に向かう飛行機や空港のなかでつなぎ繋ぎして読んだ一齣は、最短の場合は、一二ページと云うほどのこともあって、再度本を手に取って続きを読もうとしても、前後の関係が掴めずに、ページを遡って記憶のある場面を探して、そこから再度読み始めると云う重複した読み方をしたので、余計のこと進まないのであった。今回の再読は、生あるうちに読み終えることはないと達観して読み始めているので、気圧されることも慌てることもない、という意味では気楽な読書であった。
いずれこれも詳しく概要の紹介文を書こうと思っているのであるが、それにしてもそれまで何もしないと云うのも虚しい、概要的にでも語ってみようかと思って、この文章を書くことにした。

 さて、ずばり本題に入ると、長大な『失われた時を求めて』のなかで『スワンの家の方へ』はどういう位置を占めているのだろうか。
 まず言えるのは本館は、それ自体で「失われた時を求めて」のミニチュア版になっている、と云う点だろう。まず驚かされるのは、この世にマルセルほどにも繊細な人間がいて、そうした人間を生むべく世紀末フランス社会の文化的成熟と云うものが背景にあり、そしてそうした時代性にもかかわらず、これだけの多感な感受性を備えた人間が生きていくのは大変だっただろうと云う、感銘と云うか途方のなく深い感慨のごときものである。
 プルーストの文学を一言で要約するとすれば、それは永遠についての長い長い考察であった、と云えばよいだろうか。プルーストは永遠と云うものについて、珍しく時間塾の方に拡大させて理解しなかった希有の思想家である。例えば彼は永遠について、風の強い日に雲が流されて晴れた日の日差しと曇り空とが交互に入れ替わり、その太陽の光の移ろいがバルコニーの壁を這うように現れたり消えたりする金属製の手摺の模様を壁を伝う幻の蔦に譬えて、その儚さのなかに美を感受する詩人の眼差しを、永遠と云う言葉で理解しているのである。 
 からは伝統的なロマンの形式に借りて、有為転変、波乱万丈の物語のなかに永遠があるとは思わなかった。そうした大きな物語の構想にはんして、誰もが見過ごしてしまう、まるで幼き頃の粗末な幻燈の世界のような、壁に映された影絵の移ろいのなかに美を、永遠を感受した。なぜならうつろい逝く儚さのなかに美を感受するとは、切なさのなかに対象的存在として美があるのではなく、それが誰の目によっても見落とされる運命にあると云う意味でそれを取り上げた自分の感受性の仕方のなかに、永遠性に繋がる手掛かりがあると彼は感じたのである。なぜなら地球に数十億の人間たちが生存しているとしても、そのなかの一人である自分自身が、こうして記憶に留めて置くことがないならば、それらは無かったものとして、永遠に失われる運命にある。数十億分の一に過ぎないところの自分だけにそれができると云う意味で、この世に於ける自分の固有さと云うものが浮き彫りになる。かりに過ぎ逝く刹那としての美が、いわゆる永遠性と関係があるのかどうかは別としても、他ならぬそれを感じている時だけが自分が人間であると云うことを了解できる瞬間でもあると云う実感だけは残る、プルーストはこう考えたのである。
 こうしたプルーストが手にした永遠性についての考え方をレンズとして、光学プリズムとして利用したときに彼が今まで経て来た全人生はどのように見えたのか、と云うのが、後に『失われた時を求めて』と云う長大ににして前人未到の試みになったのではないのか、と、そういうことがこの第一巻を読めば分かるような仕組みになっているのである。
 この第一巻は、長大な全体小説の最後まで読まなくても、この一巻だけでも「失われた時を求めて」の意味を体得するように仕上げられている、そう思った。

 全体は三つの部分からなっている。
第一部 コンブレー
第二部 スワンの恋
第三部 土地の名――名
 、である。

 第一部「コンブレー」は、眠れない夜を輾転反側を繰り返しながら昔を回想する語り手マルセルの少年時代の物語。過去をある種の身体知として復元する方法として紹介されるあまりにも有名なプチットマドレーヌの挿話や、母とのお休みのキスをめぐる、甘ったるくて気分が蒸せるようなお話、それからコンブレーでともに過去の固有な時間を過ごした家人や使用人、村人の肖像群である。
 第二部「スワンの恋」は、プルースト流の恋愛論の開陳である。恋の在り方を常に不在という在り方でしかとらえることのできないマルセルの先行者としてのシャルル・スワンとオデットの不毛な愛の物語である。単なる街の娼婦から高級娼婦へと、高級娼婦からブルジョワの夫人へと――実を言うとまだこの先があるのだが――そんな、日々刻々と変貌を重ねる生身のオデットと云う平凡極まりない一人の女が、いかにして当時パリの社交界で寵児として持て囃されていた絶頂期のスワンの眼に、時々刻々とどのように映じたか、というお話である。作者はこの章の終わりにシニックにこう書き捨てている!――こんな女のために人生の長い時間を空費しようとは!と。
 しかしプルーストが言いたいのは、そういう固有な恋愛作用に伴う恋の錯覚のことではない。むしろ錯覚としか見えない他者の見え方のなかに、その人だけにしか分からない固有さの秘密と云うものがあり、その秘密はその人が経験した時間の質に応じて顕現し、人間性の質の低下に伴って見えにくくなる、と云うこと。言いかえれば人は長い経験を積むことでそれを合理化し世間知と云うもで代弁させることをもって満足しがちである、と。実際には、思想に高下があるのではなく、ちょうど高額プリズムを経由するごとに光が折れ曲がる様に、経験した時間の質に見合っただけのリアリティをひとは理解するものであるし、時の枠組みを超えて永遠の心理などと云うものを時間の中から取り出すことはできない、と云うのである。
 第三部「土地の名――名」は、土地の名とは名付けられた記号の如きものではなく、名付けられた人間の言葉の織物のなかで、ちょうど古い日本の水中花のように、言葉の織物を紡ぐ!
 第三部は、第一巻のなかでも最も短く、描かれている場面も簡素で簡明である。すなわち、パリに移り住むようになったマルセルとシャンゼリゼ大通りにおけるジルベルト・スワンとの出会いであり、この初恋をとおしてマルセルにとっての愛とは、不在に向けられた愛であることの、不毛性としての愛が語られる。後半は、彼女との愛を断念することで、それを埋め合わせるものとしての、いまはスワン夫人に納まったオデットとの、滑稽であるがゆえにもの悲しい、もの悲しさのゆえの愛と云う幻想が持つ華やかさ、華麗さが語たられる。
 ここでプルーストが言わんとしていることは、人は様々な愛と云う名の幻想をもって種々の人生の断層を通過するのであるが、断層ごとに光りは屈折を繰り返す。のちに我々は世間知のレベルの高みに立って、光の屈折ごとに見えた断層を、偏見として、錯覚として、はたまた幻想として客観主義の立場から総括を加え、折り合いをつけようとするのだが、実を言うと、生の実質とは、その錯覚や偏見を通過するごとに生じた光の屈折のなかにしかないのである。
 なぜなら、語り手のジルベルトやオデットへの片思いや大袈裟な愛の賛歌を笑うことは出来ても、それは人生の実質から疎外されているもの達のものの見方ゆえなのであり、人生の実質に参画しえていないからなのである。ジルベルトがマルセルの眼に固有にみえた見え方は彼の死と共にこの世から永遠に失われるであろうし、高級娼婦に過ぎない商売女に王族や貴族にも比肩するほどの高貴さを見出したにしても、笑うべきどころか、そうしたものが固有な時間を通してしか見ることのできない、人生の至宝的瞬間であったことをも語っているのである。

 言葉の織物と云う小さな世界の物語は、時折、外側の大きな世界の物語に巻き込まれて破損することもあるけれども、破損の結果現れた、無機的で、即物的な世界が真の世界像であるかと云えばそうも言えなくて、紡がれた言葉の綾織の世界のなかだけでしか人は人間であることができないのである。

 つまりここで語られているのは、言葉と現実の、通常とは違った関係である。現実と云うものがまずあって、人間と云うものは言語と云う手段を使って様々に評言する、言葉の正確さとは現実を隈なく捉えうるかと云う光学レンズとしての精度の問題ででもあるかのように、いままでは両者の関係が様々に読み解かれてきた。
 プルーストが語っているのは、これとは丁度逆のこと、つまり言葉の揺籃のなかで現実とかリアリティとかいうものは誕生するものだ、と云うものである。たとえ、言葉の外に現実があるものだと人は考えたにしても、それをそんな風に考えるのは、そう考えなくては生きていけないからであるのだし、そう考えた方が現実と折り合いが付けやすいと云う功利的な理由であるからに過ぎない。その結果――抽象や概念化と云う、もう一つの言語固有の法則に身を任せることによって、時間の中に本来蓄えられていた生の実質と云うものを我々は譲り渡してしまう訳なのだが。その失われた生の実質を、言葉の紡ぎ織の中に回復すること、それが「失われた時を求めて」と云う意味なのである。
 それにしても、何ということであろうか!

 

 こちらの記事も参考にしてください。
https://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/28564946.html