アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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野外シアター『素晴らしきかな、人生』 アリアドネ・アーカイブスより

野外シアター『素晴らしきかな、人生』
2018-08-02 11:19:43
テーマ:映画と演劇


 この映画、特にこ洒落た映画なので、買う言うこともないのですが。原作のCollateral Beauty ――これを邦画では標記のように訳し、字幕では「悲しみのおまけ」と云うニュアンスで訳していました。翻訳者のセンスにうなりました。「おまけ」とは言い得て妙です!つまり最愛のものと別れること、失うことで、いままで見えなかったものが見えてくる、と云うわけですね。ほかに、死と共存する美しさ、とか、と云う理解の仕方もあるようですが、「おまけ」と云うかるみが映画の雰囲気を伝えています。
 この台詞が映画ではどういうシーンで出て来るかと云えば、脳腫瘍を患った六歳の娘の人工呼吸器が外された後病室の廊下に据えられた長椅子で泣いていると、隣のお婆さんが話しかけてきます。誰が亡くなったのか、と。仔細を話すと、悲しみだけではなく、思いもかけないおまけがあるのですよ、と。当時の彼女はその意味を理解できません。社交辞令的なお悔やみの言葉でなかったことだけが記憶に残ります。
 この映画は、最初から成功したビジネスマンの人生観、時間、愛と、死、について語るところから始まるわけですから、悲しみが、時の淘汰によって鎮まることもなく、愛が持つ観念の永遠性に頼ることもできず、死は自然の一部だから排除するのではなく、受け入れなければならないと云うお説教にも馴染むことはできない。かかる定型句による慰めを一応は検討し、その欺瞞性を理解したうえでの主人公の生き方と云う風に設定されているわけですから、人生論風の解決は禁じ手なのです。
 実際に失意から立ち直れないビジネスマンの男を救うために三人の同僚が、三人の俳優を使って「やらせ」の劇を演じるのですが、上手く筈がありません。その俳優と云うのは、それぞれ「時」、「愛」、「死」と云いう「抽象概念」を演じてみせるのですが、――それと云うのも、人との交わりを経った主人公が秘かにそれらの抽象概念あてに手紙を書いていた、と云うのですから。そして実際にはこれらの三つの抽象概念は、それを提案した三人の同僚が持つ、それなりの悩みに対応していたことが明らかになります。すなわち、時=婚期を逸し、産期を諦めねばならぬ時期に達したオールドミスの話し。愛=妻との離婚と残された愛娘との疎遠になった関係を元に戻したいと熱望する男の物語。死=末期癌を家族に言えないでいる気弱な男の話し。

 舞台役者に、時、愛、死、を演じわけさせ、男を励まそうとした同僚たちの企みは、むしろ提案した当人たちにこそ妥当な成果を挙げるような仕組みになっていたのです。俳優たちの提案を受けて、「時」のオールドミスは母になることの最終手段である精子バンクの登録を諦めます。「愛」とは一か八かの勝負に出ること、勇気をもって娘のストーカーになることを希望した子煩悩の男はやがて受け入れられます。「死」の気弱男はトイレで汚物の処理をしていることを家族にもはや隠せなくなった段階で妻が全てを知っていたことを理解します。まあ、これらのおちは安易であるけれども一応は美しい筋道と言えます。つまり今までにヒューマンドラマと云われてきたものの要約が個々にあると考えてみたら、パロディであったと云うことも言い訳としては言い得ます。現実は映画ほど甘くはないのだと云うことを映画自身が描いているわけですね。

 こうしたヒューマンドラマの「苦渋を」映画にした映画と云えばよいでしょうか。つまり映画の映画、メタ映画と云うわけですね。かかる知的なセンスを素晴らしい冬のクリスマスの時期が間近いニューヨークを舞台に、こ洒落たファッションセンスで、こ洒落た都会映画として制作する、宜しいのではないかと思います。
 俳優もそれなりの豪華キャストと云うことでまるでクリスマスキャロルのような年の瀬のプレゼントと云えばよいでしょう。そのような冬の映画を夏の盛りに、海辺の芝生に寝転がって、野外シアターンの観客となってみたというわけですね。
 映画の出来栄えを云々するよりも、Collateral Beautyを「悲しみのおまけ」と訳した日本語の翻訳者に脱帽です。映画よりも、日本人の翻訳者のセンスってときに抜群なものがありますね。
 日本語の字幕で観れなかったアメリカの観客が気の毒です。(笑)

 おまけ!――とことんまで見失う徒労感なくしては理解できない語感ですね。断念と絶望の底からある日、湧き出してくるものがあるのです。写真で見るように単純化されて見えていた映像が、二重輪郭になるように、映像の事物や「もの」それ自体に奥行きが加わってくるのです。本当は世界とはこう云うものだったのか?と云う感慨が降りてまいります。己の無知さに気づき、人生に目覚めると云うよりも、世界が変わるのです。むしろその日そのときから、人は人間になった、と云えばよいのでしょうか、うまくいえませんが、ある種の誇らしさの感慨のなかに・・・・・。

 不運で、不幸ではあっても、他の人生と取り換えたいとは思わなくなるのです。