アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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アヴェ・プレヴォ『マノン・レスコー』1730年頃—―古典を読むとは アリアドネ・アーカイブスより

アヴェ・プレヴォマノン・レスコー』1730年頃—―古典を読むとは
2018-08-02 14:59:57
テーマ:文学と思想


 アヴェ・プレヴォ―の『マノン・レスコー』、古典の評価高いこの作も、私には自己過信とつまらない愛の物語のように思われた。恋には理由がないから、現に好きだと云う事実のみがある。他方女は好きは好きなのだけれども、元来が人が良いのか、ちやほやされると嫌とは言えない。加えて贅沢と浪費が大好きだと来ている。物語の筋書きは、だから女は魔物だから注意しなければならない。将来を嘱望された前途有望の青年も心がけ次第では、この物語のように身を持ち崩してしまう、身も蓋もない話である。小説の前言と云うか刊行者の言葉にもある様に、この書は道徳的な訓戒の書としてある。本当か。

 男の眼からっ見て女は魔物に見える。実を言うと古典的な民芸話の骨格にあるものは、かかる男優位の者の見方があり、階級社会の存在を前提にしていることだろう。
 貴族階級、ならびにディスクールの鑑賞者として見るものの眼からは、階級社会の束縛を超えて自由に生きようとする民衆のエネルギーは、「このようにみえた」と考えるべきだろう。女の眼からは、別の世界が見えていたはずだが、かかるディスクールの観点からは世の中はそのようなものとは見えないし、見えないと云うことはそう云う事実は事実上なかった、と云うことでもある。
 であるから、この書は道徳的な訓戒の書として半ば読まれてきたし、半ば好奇的な関心からファム・ファタールの原型として崇められてきたのである。
 この種の物語枠組みは、現代に於いても皆無ではない。つまり心理的な需要があると云うことだ。

 古典とは実に不思議なもので、この作品を作者の制作主旨に従って読む限り芸術作品とは言えないけれども、書かれた作品として、つまりディスクールとして読むと興味深い点がないわけではない。
 フランス革命前夜の社会的な状況、政治が機能腐敗して賄賂と口利きだけがものをいう社会があったことがわかる。読んでいていて最初に思ったことは、主人公のいい加減さにも関わらず、親をはじめとして彼に接する指導的な立場にあるものが、ことごとく温情の権化として現れて来ることである。貴族だから特別扱いされる慣習もあったのだろうけれども、この小説には書かれていないが、主人公が知らないところで金銭の取引がなされたいたのかも知れない。この小説を一番魅力薄きものにしているのは、かかる主人公の自己愛的ないい加減さである。最初から自分は特別な人種だからと云う天真爛漫さ、自分を対象化して見る自己批評的な視点の欠如である。主人公の欠点は、彼が様々な人生の荒波に揉まれたにも関わらず、少しも彼の人格を高めない。その理由は自分を特権視してみる対他意識の欠如である。
 第二の欠点は、運命の女たるファムファタール、女性としてのマノン・レスコーの彫琢力の不足である。ただ美しい、魅力的であると書かれているだけで、どこにどういう魅力があったのかが書かれていない。つまり庶民の多くがそうであったように、自分、と云うものがないのである。自分と云うものがなくても、普通に人類は生きいくえの支障はないのである。
 さて、この彼女が、最後の当時流刑地のような位置にあったアメリカの新開地で、様々な苦難を潜り抜けた末に、自分ゆえにこそ自分のもとに辿り着いた男に再会を果たしたとき、自分では意識することなく、ある種の変化が起きているのを読者は見る。つまり相手を初めて可哀そうだと表現するのである。つまり庶民ののっぺらぽうの意識が形態変化を遂げて、進化の途上に於いて時間のかけがえのなさと云う極致に達したことを語っている。だた、もはやそれを享受するだけの時間が彼女にはなかった。彼女はアメリカの荒野に野垂れ死にする運命に終わるのだが、古典的な民話話のヒロインが近代的な個人としての端緒を掴みかける話として、つまり自立の書としても読めるのである。
 第三の欠点は、主人公を見舞った奇想天外、波乱万丈の物語が、作者の履歴を見るとその多くが実体験に根差していると考えられるにも関わらず、出来上がった作品としては漫画じみていることである。経験は真実でかつかけがえのないものであったにしても、それを文章にすると非現実でリアリティの薄いものになる。それは何故か。作者の経験の質がそもそも薄かったからである、とは言えないであろうか。
 作品の芸術的な質と云うものは、一応作者の経験や人生とは一応区別されたところに成立するが、しかし描き方に意図せずして現れてしまうものなのである。


 一般に古典を読むとは、書かれた物語としてのディスクールを作者の意図とは区別して論じることを示唆する。これが現代文学の解読に於いては何故か行われ難くて、作者の意図の解明が文学研究の全てとみられかねない偏りが支配し、そのことを誰もが不思議に思わないでいる。つまり現代国語の解釈の一例は、作者は何を言わんとしているのか、それを述べよ、とこうなるのである。

 古典を読むとは、かかる作者の意図からディスクールが自然に分離してくる過程ともみえる。かかる過程が成立するためには、日々読み返してくれる読者の存在があり、作品について語りづづける批評と云うものの存在が不可欠である。今日、文学界の状況において批評が低調だと云うことは、わが国を含む文学界の状況が依然としてフランス革命以前の時期に我々はある、あるいはそこまで押し戻された、と云う含意があるのかもしれない。
 現に村上春樹のように作家のキャパシティとして、ディスクールとして読まれることに関心のない作家も出てきているのである。珍現象と云うべきか。

 それにしてもアヴェ・プレヴォとは穿った名前である。アヴェとは宗教的なヒエラルキーを意味し、かかる愛欲の物語を書くとは、ひとつのイロニーであるという宣言でもあった。つまり作者の意図なるものを読者は批判的に読まれよ!と云っているのである。
 とするならばアヴェ・プレヴォと云う男、なかなか食えない坊主、と云うことになる。