アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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樋口一葉の天才 アリアドネ・アーカイブスより

樋口一葉の天才

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 樋口一葉との交友関係を語るのに一番劇的なのは、北村透谷、一葉に会うためにいったん家を出ながら思い直したのか、引き返し、その後帰らぬ人となった。一葉との間に有意な関係があったとは思わないけれども、死ぬ前にどうしても顔を見ておきたいと思っていたのだろうか。
 同じく泉鏡花の『縷紅新草』、墓参小説と云われる鏡花特有の、晩年の小説スタイルだが、薄命の美女にまつわるむかし話と、思いやる古き時代の人々の優しさ、墓参を終えて帰ろうとして振り返ると、西の空に、雲かとまぎれて、その人の面影が出現する! わがくしなどは、この荘厳なひとの面影を、秘かに一葉女史の面影であると勝手に断じているのである。
 生前、鏡花は一二歳年上の一葉を姉のように慕っていた。ちょうど『日本橋』の清葉の面影に連なるものだろうか。清葉、一葉と、そういえば似ていなくもない。鏡花と一葉との交渉史は資料が不足していて、肝心のことは分からない。一葉をめぐる男性の交友史はかなり、実証的にも明らかにされているけれども、透谷とか鏡花とか上田敏とか、わりあい著名な人物のことが分からない。不思議なことである。
 ついでにもう一つ思い付きを言うと、これは確実に会っていた形跡はないのだが、それというのも国木田独歩のことなのである。文学者としての資質も性格も異なった二人が東京で出会っていたならば、二人の間にどのような会話が交わされただろうか、と想像するだけで楽しい。
 一方は、清新な恋愛感情に生きて、そのなかで日本人が民族として生まれ変わったような眼(まなこ)の瞬くような鮮やかさの中で、自然と人間を発見した。独歩、独歩と容易く言うなかれ!国木田独歩の出現は民族的な事件なのである。
 もう一人は、先に書いたフランスのフランソワーズ・サガンがすでに天才のほむらのように書き尽くした二十四歳と云う同じ年齢で、こちらは間違いなく、たぶん肺結核で間違いなく、別の意味で、十二分に生き尽くして死んだ、表現はおかしくなるけれども。天才とは何であるかを考えるとき、一葉のことを何時も考える。すでに十代で和漢の書物を読みこなし、封建的倫理と道徳の精華に精通しながら、旧時代の道徳に殉じると見せながら、あくまで外面を鏑木清方描くところの、凛とした端正さの中に隠匿しながら、ぞっとするような冷酷さでもって、進歩の観念や同時代の男たちの生き様を「冷笑」をもって報いた人!
 しかし一葉が新しい時代の息吹、時代の新思潮に無関心であったはずはなく、最晩年の福山円山町時代の、様々な個性をもった文学界の若き同人たちとの、まるでフランス革命期前後のサロンを思わせる年代史、伝説的な記述によっても明らかである。この時代のことは、一葉日誌巻頭の、隅田川観花の条や小日向の華やかな園遊会もどきの植物園めぐりとともに、光彩陸離、王朝的余韻嫋嫋とはこのことだろう。
 いったい、現実に、この世に、一葉のような人が存在していたとして、どのような男が、その愛において、匹敵し、対抗しうると云うのだろうか。わたくしはここで深いため息をついてしまうのである。
 なんとなれば、樋口一葉が『たけくらべ』や『にごりえ』の闇夜の果てに、封建的道徳の美質も欠点もすべてを含めてすべてを見尽くして、ある意味ではこの世のことはとて見限って、その外側に不可視の世界として単なる思惟として思い描いたものこそ、一葉が思ってもみない世界を、国木田独歩は生きていたのであるから。樋口一葉は明晰で明敏なゆえに、またその他の事情があるゆえにおいて、その一歩が踏み出せなかった。樋口一葉とは迷宮の紡ぎ糸に自らをつなぎ留める賢きアリアドネである。他方、独歩は、憂国草莽の志がなお生きている時代に生きて、志あるものの痕跡の威信をかけて、その一歩を、躓きながらではあれ、踏み出したのではあったが・・・。
  1871年生まれの独歩と、1872年生まれの一葉、関東の地方生まれで日本国を北から南へと放浪した独歩と、狭い東京を離れる意思もなく離れられる事情も存在しなかった、井の中の蛙ならぬ井の中の天才である一葉、何が、ほとんど同年とも云える二人の男女を分けたのか。
 
 でも、もしかして、生き方の鮮度の高さを、その生き方の清冽さを乾坤一擲の思いを込めて生きた独歩が、ただの一度ではあれ、江戸の面影を残す町角でもし出会っていたならば、彼は『忘れ得ぬ人々』のなかに書きとどめてくれただろうか。やはり資質と性向ゆえにすれ違ったのだろうか。