アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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死の影の谷を生きる 古代の殯について

 

 大切な人を亡くして、墓参りが欠かせなくなった人たち、死者の思い出に曳きずられて悲嘆の日々を送る人々の気持ちはわかります。しかし私の悲しみはそのような形をとることはなく、外見的にはそっけなく、傍目には冷淡にすら映ずることもあったでしょう。

 端的に言うならば、私は生の世界と死者の世界の間には、お葬式の他に、嘆き悲しむ機関としての、古代人が生きた殯という固有の期間と時間があるのではないのか、と考えているのです。

 

 どうして、何故に多くの日本人たちの遺族の多くと私の死の悲しみ方が違ってしまったのか。それは殯の期間をどのように評価するかの違いに寄るのだと今は考えているのです。

 

 殯とは、をれを死者の側から見れば、死者が死者の死を生き、死者が死者の死を死に切ることを、つまり死者の死後の固有な機関と時間とを意味しています。同様の過程を生者の方から見ると、やはり死者の死を生ききることをもって死者の殯をこの世に於いて支える、という意義と役割があると思うのです。これを憑依と呼びました。

 つまり死者の意志と残された者たちの思いが連動しなければ、死は成就しないと思えるのです。

 

 殯の形式は複雑なので誰もができるわけではありませんから、通常は生と死の世界に結界という名の線引きをお坊さんなり牧師さんがしてくださるわけです。その場合は、死は一貫して自分の外側にありました。

 

 殯では、死は憑依という形をとって遺族の中に入り込んできますので、死は自分の内側にあります。遺族は死者が生前なにを望んでいたのかなどの思いを通じて、死者の死を生きるのです。その死を生きる機関と時間を殯というのです。

 

 ですから殯とは、死者との恭労作業なのであって、それを生の世界の方から見れば、遺族が死者の死を生き、死者の死を死に切ることによって殯は完了するのです。

 古代においても殯の期間は定められてはいませんでした。定めることができないのです。遺族の中で選ばれしものとしての喪主が死者との交感のなかで自ずから了解として腑に落ちるものがあった時、殯は明けるという表現をとったのだと思います。

 

 仏壇であるとか、墓に額づく行為は、殯が開けたのちに人々が取る行為ではなかったか、と考えているのです。