アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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吉本隆明の”大衆の原像”と”自立の思想的拠点”について アリアドネ・アーカイブスより

 
博多駅中央口前で激しく行き交う群衆に流されながら、駅弁を探してウロウロとしていたら待ち合わせをしている専門学校の女子のグループに呼び止められた。これから帰るところだという。先生はどちらへ?大分へ。そうおっしゃってましたね。

午後6時代の下り線特急は本数もやや少なくなっている。左側車窓に腰を降ろすとやがて日没となった。棒線が引かれて変色したセメント化学の専門書を久しぶりに読み返す。このほかに旅行にはマルグリット・ユルスナール『セレクション・4』白水社2001年、鹿島茂吉本隆明1968』平凡社2009年、中公新書『イタリア・ロマネスクの旅』を持ってい行く。

折からの夏の陽射しに晒されて三日間大分県下をくまなく巡回する”地方巡業”。今年はから梅雨なのと温度も思ったほどは上がらずしのぎやすいので助かった。途中滝を見て涼を楽しむということもあったが業務が優先する。こちらは乗っているだけなのだが、車2台のキャラバン隊では運転する方も大変だろう。夜更かしが苦手なので夜の限られた時間で本を読み継ぐ。

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あの1968年当時、吉本を同盟者として意識したことはなかった。むしろ大衆の原像論や自立思想が否定的な役割を果たしたのだけが僅かに記憶にある。その後まともに吉本思想とは対峙する間もなく、私は長い空白期に入った。1969年のあるy時刻において論理を凍結させることにした。

今回鹿島さんの本を読んでみて吉本思想の伝わりにくさの原因は、その難解さであるよりもその多くの吉本的課題が時代によって淘汰されてしまったことにあるのではないか、と感じた。例えば有名な『転向論』、『芸術的抵抗と挫折』にしても、とりわけ第三の道である中野重治の『村の家』の分析は見事であるにしても、今日反帝・反スタ自体が思想の直接性としては対象化しえない以上、一部の文学研究上の項目以上の意味は持ちえないであろう。

今回は特に小林多喜二の『党生活者』を巡る解釈にある感慨を感じた。吉本はこの本の主人公に党のためという大義名分の裏に隠された非人間性を暴きたてた。1959年代という戦後が未だ形をなさない、揺籃期という時代背景を考慮に入れなくても、これ自身優れた文学批評である。反帝・反スタという政治上の言説に係わらないだけ普遍的な示唆に富む指摘になっている。”笠原”と記号化された偽装夫婦における、同調者を見つめる”党生活者”の眼差しの冷たさが抉りだされている。

この点に関する限り吉本と『近代文学』に集う平野謙荒正人たちと大きな違いはなかったはずだ。ところが吉本はここから、近代文学派同人たちの思想的拠点であるヒューマニズム概念一般を持ち出してくることに対して声高に抗議の声を上げ始めるのである。

ここまで来ると、おやっと思わざるをえない。論理の展開としても吉本の方が不自然なのである。そうして持ち出されてくるのがあの有名な”大衆の原像”論なのであるが、その大衆概念の中身たるや、自分自身の利害的世界のテリトリーを一歩も出ることなく、あらゆる理念的形成物を空疎な観念として弾劾してやまない群衆の攻撃性それ自体なのである。

吉本がヒューマニズム一般の理念自体の空疎さを指摘するのは良い。しかし理念的成果物である思想一般をそのように批判するのであれば、吉本の自立思想自身もまたその自己批判の洗礼を受けなければならなかかった筈である。吉本のいう大衆の原像とは、政治的形態としては、かってこの世に存在したこともなければ未来に存在するはずもない単なる理念的抽象にすぎないのである。町のクマさんハッさん的に、いかにもありそうなこととして語られるがゆえの、大嘘なのである。

吉本大衆論がなぜあれほどの攻撃性と成果を収め得たのか、その理由は単純である。文学や社会科学という公共的な言説の空間に、超歴史的とでもいえる私的な概念を持ち出してきた明白なルール違反にある。ちょうどサッカー選手権において、いきなり手も足も使ってよいし、必要であればアメフト並みの体当たり作戦も辞さないグループが参戦してきたのである。その余りにも明白なルール違反がゆえに、あっけにとられた観衆は言葉を失い、いつしか共犯者となっていたのである。人間の理性は、黒をグレーと段階的に主張することに対しては様々な段階的な議論が成立するのであるが、明白に黒であるものを白と言い換えられると、妙に納得するばかりでなく、その心理的反動として強固なシンパが形成されるという群集心理の倒錯的心理的な極限状況がありえる。

大衆の原像といい、しっかりと大地に足をつけた自立の思想的拠点といい、思想的表現としては美しい。しかし吉本の大衆概念とはその下町的体臭と具体性をもって語りながら、実際にはどこの誰とも知れない身体性を持たない単なる抽象なのである。吉本が自立の思想的拠点を語るのは良い。しかし誰が誰に語っているのか。クマさん、ハチさんは本当に人間の皮膚と感情を持っているのか。かくて、どこの誰でもよい任意のあなたが、取り換え可能な任意のあなたを相手に語るという驚くべき非文学的空間が現出する。

日本資本主義の自己貫徹は先時の世界大戦によって推進されこそすれ、中断されることなく、押し寄せる海洋の波の如く日本全土を洗った。日本資本主義の自己課題とは、工業化社会に対応する労働者人口の確保であった。その最大の攻撃目標は広範な日本農業人口に定められたが、神社や寺院に付属する村落共同体の抒情性から如何にして立ちきり、自由な労働市場を現出させることができるかが最大の思想的課題であるといえた。戦時の挙国一致体制とはその意味で戦後の工業化社会に備える予行演習のようなものであった。赤札一枚によって任意に取り換えの利く産業層の形成が可能となった。

吉本隆明が活躍した1950年代とは、日本資本主義が戦時の非常事態を脱し、自らの本性を自覚しつつ自己形成を遂げつつある端緒の時期に相当する。60年安保闘争とは、工業化社会内部でのエネルギー転換に基づく配置転換である。学園紛争と70年安保とは、さらなる大衆化した学卒人口の資本主義産業構造内部での配置転換である。鹿島の68年当時の学卒に関する当時の大学の大衆化・陳腐化という観点が欠落していて、正確でないと思う。当時においても学卒者は親類縁者の中で最初のものであったという鹿島の指摘は、東大生であった鹿島にのみ妥当するものである。当時石を投げれば大学生に当たる、駅前大学と言われていた現象は、しっかりと私の記憶に残っている。

吉本の大衆概念に対応する社会的現象とは、資本主義の機能的自己分立化の過程で大量に生み出された、窓を持たないモナドのような存在、原子化されて一元的に短絡かした志向のみを有する群衆的集合体のなかの一個の還元化された原子のようなものであった。ライプニッツに起源する窓を持たないモナドとは、自己の利己的な領域にのみ執着する個的な存在である。そのような一見”知的な”存在と化すことによって初めて、高度資本主義化の日本的高度管理社会は一応の完成を見たのである。ここには大衆の概念規定において、高度資本主義と吉本の大衆概念の驚くべき思想的一致が見られたのである。吉本隆明なり彼の追従者がなにゆえ保守化したかの最大の秘密がここにはある。

公共的言説空間においては私的な言説を対立させ、私的な領域においては公共的な言説を対応させるという両面作戦、悪く言えば二枚舌を吉本が意図的に用いたというつもりはない。しかしこの明白なルール違反は、その無思想・無原則性ゆえに、政治の季節といえたあのような時代のあのような時期においては無視しえぬ役割を果たした。それが大衆の原像と呼ばれたものがあの時代に果たした役割の一つである。

論争家としての吉本の攻撃性は吉本自身は思想本来のラジカリズムと思っているらしいが、平均化されたモナドが均質的空間に閉鎖された場合に生じる化学反応の如き自然的過程なのである。交換可能な平均化された単位としての個人とは、自分自身が無原則無思想であるがゆえに、自己のアイデンティティを自ら証明することもできない代わりに、自分が他者とどう違うのかも説明できない。自分自身の正当性の根拠とは、絶えず自分自身の存立する閉ざされた空間の境界域に生じる異常な関心の高さによってしか証明できない。こうして89年以前においては東側ヨーロッパにおける密告社会が、西側においては密告性が目に見えないまでに制度化し、普遍化された高度管理化社会が出現する。

思想とは、本来下部構造の直截的な反映という認識論的レベルにとどまることはできない。思想が背後の社会の構造を追認するとき、本来の思想の役割も終わりを迎えるのである。

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三日間の出張旅行の終りは少し時間があったので中津の城跡に行こうということになった。五層の天守閣が復元されていて、楼閣のバルコニーからは遠く九州脊梁の山並みが影を引いている。周防灘に面する反対側は中津側が夕日に輝いて蛇行している。天守閣を降ると思いがけないものを見つけた。増田栄太郎の中津隊の顕彰碑である。明治10年における中津隊の顕著な特徴とは、西郷軍が田原坂におけるを決定的な敗北を喫し、阿蘇方面に雪崩を打って配送を始めた段階において、朗々と永遠性を寿ぐ褒歌を朗詠しながらに遥々と中津を発って西郷軍に合流するに至る必敗の思想、確信犯的冷静さ、抒情的戦略的不可解さである。隊長増田は西郷らとともに城山の露と消えた。歴史上有名な新風連は武俱としての鉄砲等の近代兵器を自らの禁じ手としたという点で際立っているが、必敗を意識した確信的な行動の思想的純粋性の高さにおいて、かの新風連を優に凌ぐものがあるといえる。このような愚挙ともいえる増田の思想家としての純粋性の背後には明らかに福沢諭吉に代表される和魂洋才の時代的到来があるのだろう。そう言えば昭和史としての中津は、松下龍一のような思想家を生んでいる。彼の背後には、遠くつながりえるものとしての増田栄太郎の存在を感じて胸が熱くなった。