アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

”色気の構造”について アリアドネ・アーカイブスより

 
ある専門学校の生徒の質問に応答して

現象学とは一杯のコーヒーカップからすら哲学を語ることができると、かってある高名なフランスの哲学者は語った。それならば、色気などという人間の微妙な機知ですら、哲学は語ることができるものであらねばならない。

色気を純学問的に考察するとどうなるのだろうか。
例えば色気と好色を比較するとどうだろう。ここでは好色を、仮にある種の対象化されたモノ的な事態、というふうに定義するとすれば、その現実性ゆえに、他と共有可能なものとなるだろう。いわば客観的な事態の成立、というふうに理解してもよいだろう。言い換えれば、個的な経験を経ても、再現可能な、あるいは個的な経験同士の交換可能な自体の成立、というふうに考えてもよいだろう。

そこで、好色とは違った正反対のものを考えてみよう。
好色が可視的な現実性、交換可能な客観性を持っていたのに反して、個的な趣味性、いわく言い難い以心伝心的な状態を、色気と定義してみようか。好色については誰もがある一定の了解的イメージを持つのに対して、色気については、ある人間は色気を感じてもその隣の人は、そうでないという場合もあるであろうし、たとえ共同主観的な了解的イメージが成立するとしても、それはかっての廓であるとか花柳会であるとか伝統的感性に裏打ちされた、心情的共同体を前提にしている場合が多い。つまり近代市民社会における個的個人であるとか、大衆社会におけるアトム化された個人に対応する概念ではないのだ。

あるいはその両者を成立させている根拠を考えてみようか。
好色は一個の対象性として、可視化されたモノ的な実態として現れる。色気はほのかな情緒のたゆたいとして、対象を目指しつつも決して対象にたどり着くことを最終目的とする風でもなく、主体と対象の間にあってほのかにまとわりつつ、明確な可視化した現実を生むことはない。
好色は可視的な物的な対象として、交換可能な対象として、お好みであれば市場価値を有し、流通機構過程の商品とさへ変身することが可能であるのに対して、色気はあくまで以心伝心的な趣味的なセンスや感受性の一種素人じみた、先商品経済状態に止まるのである。

好色は対象性として、色気は対象に向かう一瞬の、束の間の契機――プロセスとして現れる。
好色は客観主義的な概念であり、長い人生経験の過程で洗練されもするが摩耗もするそれ自身修練の賜物である。色気とは、まだ人生に踏み出したばかりの海のものとも山のものとも分からない若い感性が、はじめて自分の好みや願望を他に映し出してみる、そうした忘れられない原初的な経験なのである。