アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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「大衆の原像」の原像 アリアドネ・アーカイブスより

「大衆の原像」の原像
2015-02-11 17:55:59
テーマ:宗教と哲学


 
 
 
 
 
 

  
 前の記事では吉本の「大衆」と云う概念が虚妄、幻想ではないか、と唐突に書いて終わっていたわけですね。もう少しそこのところを書き足してみたいと思います。

 例えば、吉本隆明の特異の言説、――大衆の意識過程を思考や論理過程に取り込まなければならない、とされた段階以前の問題として、1950年代の吉本の「大衆像」とはどのようなものであっただろうか、吉本風に言えばどのような位相に配置され表現されていたのであろうか、吉本の大衆像がそこにおいて現れてくる場所、それは固有な時間と云う場所でなければならない。

 1950年の詩集『固有時との対話』より、

わたしはほんたうは恐ろしかったのだ 世界のどこかにわたしを拒絶する風景があるのではないのか わたしが拒絶する風景があるように・・・・・(中略)・・・・・わたしは昔ながらのしかもわたしだけに見知られた時間のなかを この季節にたどりついていた
(吉本『固有時との対話』思潮社版p51)

 「この季節」とは、当時吉本にとって大衆が見えた場所と考えてよい。その場所論理は次のように転回をみせる。

わたしのなかに とつぜん停止するものがある
<愛するひとたちよ>
わたしこそすべてのひとびとのうちもっとも寂寥の底にあったものだ いまわたしの頭冠にあらゆる名称をつけることをやめよ
(前掲書p52) 

 あるいは二年後の、1952-53年の『転位のための十篇』では、

信ずることにおいて過剰でありすぎたのか
ぼくの眼に決別がくる
にんげんの秩序と愛への むすうの
決別が来る
(吉本『転位のための十篇』より「一九五二年五月の悲歌」より)
 

 「季節」と「固有な時間」との別れは次のようなものであった。

ぼくを気やすい隣人とかんがえている働き人よ
ばくはきみたちに近親憎悪を感じているのだ
ばくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ
きみたちはぼくの抗争にうすら嗤いをむくい
披露したもの腰でドラム缶をころがしている
きみたちの家庭でばくは馬鹿の標本になり
ピンで停められる
ぼくはきみたちの標本箱の中で死ぬわけにはいかない
(『転位のための十篇』「その秋のために」より)

  
 これは単ある孤独、あるいは疎外感というようなものではないだろう。世界には、固有でない、至る所に場所と云うものは無数にあるのに、そのいずれにも自分が生きて行ける、受け入れれてくれる場所と云うものがない、と云う認識である。――念のために言い重ねると、ある固有な場所があってそこにどうしても入れないと云うのであれば、それは羨望あるいはスノビズムの問題である。そうではなくて、世界に至るところに「場所」はあると云うのに、何れにも自分の場所がないと云う寂寥感なのである。世界のなかの不在、と云う感じなのである。そう云う場所では、意味世界は浮動し、論理は空回りする。文節と文節の間は、ちょうど詩「固有時との対話」の抽象的な言語の脈絡のようにように色彩や輝きを失い、全てはモノクロームの事象と化し、風と光と影だけが残る。次第に生きていると云うリアリティの感触が失われていく。
 その風景とは、次のように吉本によって記述される。

 風と光と影の量をわたしは自らの獲てきた風景の三要素と考えてきたのでわたしの構成した思考の起点としていつもそれらの相対的な増減を用ひなければならないと思った
(『固有時との対話』p43)

吉本隆明の大衆に対するイメージが、近親憎悪にも似た疎外と意味脱落の風景であったことは記憶されていてよいだろう。彼は、この地獄のような風景から立ち直り持ち場を固め、歌の別れを経験したものとして、戦後稀に見る異例の思想家として、戦後の光景の中にやがて出で立っていくのである。
 大衆の原像とは反語の如きものだったのである。反語の如きものであると同時に、限界概念のようなものだったのでもある。こうした近親憎悪にも似た意識過程からそもそも大衆の原像を取り込むことが出来るのだろうか。むしろ、この論題を逸脱するが、対幻想、――とりわけ吉本が対幻想に与えた家族の役割、兄妹、姉弟の記述に奉げた卓越した意味にこそ吉本の見果てぬ夢が揺曳しているような気がしてならないのである。


 この時期の吉本にとって大衆とはどのようなものであったのか。これらの詩集に描かれた映像は、いずれも、後年の吉本が言う「関係の絶対性」(『マチウ書試論』)の全容が明示的に意識化されるようになってから、つまり疎外されるつある関係性の意識の中で、対象化されたものとしての大衆像なり大衆概念と云うものを語っている。
 吉本ほどに明晰でないものの場合はどうなるのだろうか。吉本のように言語を持たず、対象を意識的に名指して、それとは明示し得ない一般者や、とりわけ年少者や幼児の場合はどうなるのか。吉本の疎外感は一部彼の知識人としてのあり方が強いたものであったが、知識人でなくても大衆と云う概念からの疎外、孤立はあり得るからである。とりわけ貧困と差別の構図の中で。

 たとえば、高畑勲に優れた『火垂るの墓』(原作 野坂昭如)と云うアニメがあるが、戦禍の中で両親を失い、頼るべきつてある人々にもつれなくされて、戦後の復興の予兆の中で死んでいく幼い兄妹のい周辺にあったものこそ、本当のことを言えば大衆なのである。人間は利己的な生きものであり、後年の吉本が言うように、実感として受け取られる生活過程だけが本来思想が根付かねばならない生活者としてのリアリティの条件であると考えるものであるとするならば、特別の利害関係や強い縁故関係がない限り、弱者は見てみぬ振りをするほかはない、優勝劣敗の、適者生存の法則にまかせるほかにしようがないと考えるしかないのである。戦後間もない頃、武士はくわねど高楊枝!とばかりに、不正な世の中や闇取引の手練手管の社会慣習に染まらじと誇り高くも餓死した裁判官がいたが、これなどは高潔の士と云うより、後年の吉本に言わせれば、たぶん愚の骨頂!と云うことになるのであろうか。
 つまり、大衆とは、ニーチェ流に言い方を借りれば、善悪の彼岸にある概念なのである。善悪の彼岸にあるものを、感傷的なヒューマニズムで対抗しようとしても、どだいが無理なはなしなのである。大衆とは善人にも悪人にも成り得る、扱い方では『千と千尋の神隠し』の「かおなし」のように、猫のようにもおとなしいとも言えるし、爬虫類のようにも獰猛になる。しかし、本来、思想と呼ばれるものが地についたもの、真に生活に根差した有効なものであるためには、好むと好まざるとに関わらず、大衆と云うありのままの実態を嫌悪することなく引き受け、大衆の意識過程を自らの論理や思考過程の中に取り込む必要があるのではないのか、それが吉本の「大衆の原像」と云うことで言いたいことなのであったろう。

 以上、1950年代の吉本の詩集を中心にして彼の大衆概念を検討してきたのであるが、その大衆像は遺憾ながら、ヘーゲル哲学で云う即自態としての大衆像であった。それでは吉本の言う大衆とは、いつの世にも存在する、変化することを永遠に拒む固定された肖像のようでもあるのだろうか。ちょうど吉本が感化を受けた柳田民俗学の常民概念のように。しかし大衆が自らを見つめ直すとき生じる対自態としての大衆、あるいは外なる現実に向かって変革を呼びかける対他態としての大衆像についてはどうだったのだろうか。観念論哲学ヘーゲルの学説のようにではなく、対自態や対他態であり得ないことがこそ、大衆が大衆であることの由縁であり定義でもあると吉本なら言っただろう。

 これにたいするひとつの反証は、60年代末の学園闘争と吉本の関係に見ることが出来る。吉本の目には規模の大小はあるものの戦後の反戦運動史は、所詮は観念左翼の自己撞着に過ぎず、学生運動とは自然の季節の変化、輪廻の如きものに過ぎない、だから後退期に於いては「政治的冬の季節」と云ういい方が流布されているではないか。
 吉本の大衆概念の前提には、大学にあるものは既に大衆ではあり得ないと云う彼の思いこみがあるようだ。当時、大学の進学率は30%を超えていたと記憶するが、三割に過ぎないのだから大衆とは呼べないと考えるのか、それとも三割と云うボリュームは社会の中で無視し得ない規模であると考えるのかの違いである。あまり一般には言われないことであるが、60年代の学園闘争を東大闘争を代表的なものとして語るのは一面的であり全容を語るのには誤解を引きこんでしまう。東大と共にあの時代、連帯して立ちあがった日大をはじめつする全国の諸私立大学に闘争の火が燎原の火のように飛び火、拡大した背景には、もはや大学生はエリートではあり得ない、使い捨ての勤労者一般に過ぎないと云う学生側の自己認識もあったはずである。こんなことを言うとその後それなりにステイタスを登り詰めた体験世代の一部から顰蹙を買いそうだが、60年代の学園闘争の背景には、確かに明治初期の一連の不平武士の反乱を思わせるような不穏当さが確かにあったのである。当時、活動家と呼ばれていた学生たちは仲間内に語りかけるのに、先進的学友諸君!と呼びかけたものだが、その内実は先進的でもエリートでもないことを知りすぎるほど知っていたのである。

 わたしがここで当時の学生諸君は既にエリートではなかった、と云うことを言いたいのではなかった。現状ではエリートではなく卓越した存在でもなく、所詮大衆の一員でしかない学生たちの間から変革の意識が、つまり自らの現状を問い返す即自かつ対自態としての学生像が、そしてベトナムや沖縄に向かう、外なる現実と内なる現実の落差こそ、本来思想が思想であるために持つ動因であることに気づきはじめた対他存在としての学生運動の、萌芽としての意識があり得たことである。言うまでもなく学生とは大衆ではあり得ないとする当時の吉本には聴く耳を持たなかった。しかし学生たちの問いかけは、むしろ吉本の大衆の原像を踏まえた上での、自らの現存在の意識的あり方を通して、現実がどのように見えるか、と云う問いかけであったはずだ。現実と自分自身の間にそれが平和な日本の現実とベトナムの間に介在する距離として、そのようなものとして乖離がもしあるとするならば、その乖離は何よりも自身の内部における存在と当為の等価式にこそ求めなければならない、学生たちはそのように考えた。追い詰められて末期症状をきたし始めた戦後の反戦運動史がテロをも政治的選択手段としては辞さないと過激化する一方で、その倒立像として意識的内在を徹底することによって現実の方向に向かって突破する、現実を幻想的世界の方向に突破することによって現実へと帰還する道を見つける、そのような道行を模索し続けていた。道を模索しつつ、むしろ孤立を深めつつある彼らに、例え立場は異なっていても敵陣営の苦渋を察し、古武士のような温かい激励の情を贐として奉げたのは、皮肉なことに自決直前の三島由紀夫の方であった。
 

 吉本隆明の大衆の原像論が60年代の学園闘争なり平和運動に対して感度悪く、応答し得なかった理由の一つは、上記のような彼の大衆概念が、即自態としての意識にとどまって、そこから如何なる出口も拒否すると云う彼の姿勢ゆえにであったことは言えると思う。何故、思想が観念にとどまり客観的な概念には発展し得ないのか。なぜ彼の市民概念が、市井の庶民概念や柳田の常民概念に似てしまうのか。例え、言葉や観念は現実の反映に過ぎないとしても、そのことをもってして何故言葉や論理が現実を支えてはいけないのか、彼にはどうしても言語や言葉が主観や客観とは異なった自体的存在であると考えることが出来なかったのである。
 
 

 彼の国家論である『共同幻想論』の弱点は、自己幻想の部分にあると思う。彼は対幻想や共同幻想ほどには自己幻想について語っていない。あたかも自明であるかの如く、自己幻想とは主観的な観念的な世界の営為、その例として文学や芸術体験をあげて平然としているかの如くである。
 この背景には、わが国の偏った芸術教育がある。何か芸術体験を個人的な、主観的な世界の出来事であるかのように記述し理解してしまいがちなのである。たしかに戦後の間もない頃、日本人が文化を贅沢品と考えていた時代に於いても唯一、文学を語ることだけは例外であった。人々は疑うことなく漱石や太宰を自意識の内面の脈絡に於いて読んだ、現代に於いてもさまで変化しているとも思われない。
 また、戦前戦中戦後を通じて小林秀雄のような大御所が何を勘違いしてか年増の茶の湯の師匠よろしくしゃしゃり出てきて、文学とは自意識なりと云って憚らなかった、かかる戦後の国語教育の政策的背景もある。国民全体が戦前戦中の反戦意識に対する後ろめたさの中で右往左往しているなかで、所詮立派であったなどとは言えないにしても、戦時下に於ける小林の明晰で判明なある種万能めいた自意識は、天皇制下の翼賛的な雰囲気に完全に掬われてしまったわけではない、と云う言い逃れを戦後許すことになってしまった。他面に於いて、京都学派の西田幾多郎は戦後世を憚る物言いを強いられたがーーかかる不公平さが何とも承服しがたいのである、小林は無罪放免を黙認されたもののように能天気に、あたかも戦争体験などなかったかのように、天真爛漫の厚顔無恥とも云える大らかさに於いて語った。また彼の中期以降の急速な日本的なものへの回帰は川端康成の活動と並んで、自信を失いつつあった日本国民の無意識を底上げすると云う国策にも合致するものでもあり得た。

 しかし今日であれば誰しも芸術的経験とは主観的で個人的な世界の出来事ではないと云うことは分かるだろう。劇場に入って音楽や舞台を鑑賞するとき、わたしたちを感動で襲う雰囲気は断じて主観的なものではない。ましてや自意識などと云うものでもないのである。音楽が総立ちの聴衆に語りかけるとき、言葉は歌い手とも聴き手とも異なった自体性を持つ、人間的な言語の世界とは様ことなった星降りきたる言語の花束のように、言葉は天から降りてくる!そのような感動を味わったことがないだろうか。芸術的経験を自己幻想のレベルで語ることなどあり得ないのである。せいぜい言って、自己幻想が芸術的経験の契機のひとつにはなり得ると云うことを認めるにやぶさかではないにしても。
 芸術的経験が与えるものは主観を越えていて、それでいて客観的であるともいえない。主観と客観を分けて説明することが無意味となるようなある究極の圧倒的な経験なのである。

 

 
 
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