アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「終わりよければすべてよし」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
  読み終って題名が題名だけに複雑な気持ちになる。若い娘が様々な障害にもめげず結婚と云う栄冠を勝ち取るまで、と言うにしては余りに陰影に富んだ人物配置である。筋の単純さに比較して、この戯曲の群像が与える印象は余りにも複雑である。
 
 シェイクスピアのことだから、全てをイロニーでもって読まなければならないのだろうか。ヒロインの名前からしてヘレナなどと、まるで不吉な女の名前の象徴のようではないか。ホメーロスのヘレナは、ただ単に意志を持たなかったがために歴史に翻弄され意図せずして悪女になるのではあるが、本当は物言わぬ犠牲者なのである。シェイクスピアは同様の名辞を使って、全てを宿命に任せず運命に任せない女性像を主人公に選んだ。例えば彼女はこのように言う。
 
ヘレナ「私たちは、人間を救う力は天のみにあると思いこんでいる。
でも、その力が私たち自身のうちにあることもよくある。
天も私たちに自由に動く余地を与えている、だから
思ったとおりにことがはこばないのは私たちの怠慢から。」
 
 このヒロインの魅力は自らの身分をを弁え宿命を甘受する慎ましさにある。さらなる魅力は、その慎ましさの感情と、大胆不敵とも云える運命に抗い時を呼び込もうとする女性とは思えない純情さと果敢さとの、奇妙な同居状態にある。エリザベス朝のマキャベリスムとも云える結果を恐れない手練手管の数々が、この乙女の可憐な魅力をそぐどころか、却ってその望みの無謀さがこの非力な女性の魅力をを際立たせ、私たちのこの女性向けられた好意を一杯にするのである。
 
 ヒロインに配される脇役陣がまた、一筋縄ではいかない。ヒロインを嫌って戦場に逃げる許婚者の母親・ロシリオン伯爵夫人、この女性が母親として、身分違いどころか自らの愛の記憶を懐かしく思い出しながら、この孤立無援の乙女に援助を申し出る。出自や身分やその他の世俗的な属性の何よりも変わらぬものは愛の真であって、その当たり前のことを当たり前の感情として受け入れる、その何でもないことを心の自然として受け入れる、実は21世紀の今日においてですらそう容易くはないことを、乙女の気持ちを確かめ、乙女との問答の果てにある種の感慨を持って決断する、その気もちを真に高貴な貴族の感情である、とは思うのだ。
 シェイクスピア戯曲中、忘れがたい印象を残す脇役の一人とは言えるだろう。
 
 また、この戯曲の不思議さは、封建制の中にあって身分違いの恋の成就を不自然どころか、心の自然さの成就と歓び寿ぎ、ヘレナの意図を援助したり共感したりする人物ばかりの配置なのだが、その中にあって肝心の当の相手のバートラム・ロリシオン伯爵とともに、その堕落的人生?の指南役を務めるベーローレスという者の描出が、複雑である。
 物語の初めの方でヘレナが、パリの宮廷に伺候するバートラムへの身分違いの心の想いを述べた後、彼女とベーローレスとの会話は謎に満ちている。二人の会話は貞操とか処女であるとかの価値をめぐる高踏な議論なのだが、そのような時代が至高とする女の価値や理念が所詮は時代の必要により強いられたものであり、人間の自然に反するものであることを諄々と説く、これなどを読むと、なかなかどうしてと思う。この同じ人物が、このあと本性を見破られ、単なる大悪党に転落するのだが、この落差が何とも理解しがたい。むしろこの場面は伯爵夫人とともにもう一人のヘレナの味方であるラフューにこそ相応しい科白ではなかったか。
 
 同様のことは、一貫して悪しざまに描かれるバートラムについても云える。彼が人生に粋を感じない単なる朴念仁であるならば、なぜ世俗的な成功を約束しているかに見える王の好意に背いたりするのだろうか。また何故、宮廷での気儘で安楽な生活を送らず自らの意思に於いて戦場を目指す男気を見せるのだろうか。また戦場ではあまたの殊勲をあげ軍人として有能であったと聞く。その彼にして、うかつに乙女の術中に陥り、最後は「ベッド・トリック」の内実を暴露され、宮廷の皆の前で赤恥を晒す羽目になるのだが、激昂することなく従容として『終わりよければすべてよし』、と受け止めるのである。
 
 奇怪さを孕んだシェイクスピアの問題作だとは思うが、どんな悪運にもめげず、例え夫となる人が愛に価しない人間であろうとも、自らの秘めた慕いの実現に只管に忠実に努めたある実在の人物がいて、その見知った人物に対して奉げたウィリアム・シェイクスピアの人生の応援歌であるような気がしてならない。
 
 最後のクライマックスは、明らかに『冬物語』を彷彿とさせる。
 傑作とは言い難いが、忘れがたいウィリアム・シェイクスピアの作品である。