アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピアの ”ヘンリー8世” と ”ジュリアス・シーザー” アリアドネ・アーカイブスより

 
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 どちらから紹介しようかと思いながら、まずは ”ヘンリー8世” から。この華麗なページェントと陰謀と権謀術数が入り乱れる歴史劇を一読して感じたのは、この劇のテーマは ”時間” ではないか、と思ったのである。ヘンリー8世の治世と事績は余りにも有名で、周知の史実を踏まえているかこそ、”時間”、という不可視の途方もないテーマを中心に据えることが出来たのである。
 
 この劇は、一見周知のヘンリーをめぐる歴史的事件とページェントを排したモザイク劇のように見えるので、劇の外面的な効果だけを狙った失敗作のようにも云われてきたらしい。あまりに出来の悪さに、これはとてもシェイクスピア単独作ではなく、後継者の一人が改作、もしくは合作の結果とまで云われているそうである。シェイクスピア演劇史研究史においても有力な解釈のひとつとして現在においても否定されていないらしいので、どうやら海の向こうでは大真面目な話なのである。
 
 かえって日本人の私のようなものが、翻訳で大した予備知識もなしに短時間で読みあげてしまうと、そこにはとうとうとして流れる時間の無情さのようなものが感じられる。政治的粛正劇の羅列とも思える時間の非情さの中で、その波間に漂う人間群像は、それが善人であると悪人であるとを問わず、無限の光源に照らしてみれば愛惜の余情が残るのは如何ともしがたい。その時観客は神に類する視点に近づいているのだろうか。そこに ”ヘンリー8世” の愛憎を越えた余情と云うものがある。最も印象的な人間像造形はキャサリン妃であろうが、ここではあえて最高の悪役枢機卿ウルジーの場合について考えてみよう。シェイクスピアの人間観が魅力的なのは、人間存在を常に二面性において描く点にある。私欲と権謀術数の限りを尽くし、権勢の奢りと綻びから自らの末路を予感した時、ウルジーは意外と達観して自らの非を認める。つまりこの世に置いては万時が綺麗事では済まないことを知るがゆえに、世俗の掟とルールを、勝たんがためにはマキャべりスム的な手法の限りを尽くす。しかし、一端こと破れた後は、世俗の重荷を取り除いてくれた幸運を神に感謝するのである。こうした人間造形の厚みを見せつけられると、やはり宗教を持った民俗性には敵わないなと思うのである。
 
 ”ジュリアス・シーザー” の主人公は誰かと云うことは昔から論議があったらしい。私の観るところ、主人公はブルータスである。ブルータスについては劇中彼が清廉の士であることが度々語られるが、この劇中に置いても彼だけが個人的な動機でクーデターに参加したわけではないことが暗示的に読みとれる。清廉の士と云い、正しき人と云い、正義や公平さと云うことがこれほど重要であったのは、宗教と云うものをを知らないローマの時代であったからである。公平であるかそうでないかがこれほど大事な事として語られるのは、ローマ時代が偽善と云うものを知らないからである。人は正しいか正しくないか、正しさという容器に複雑な内容を盛り込むと云う手のこんだ方法はキリスト教以降の時代が人類に教えたものであったからである。それだから死を前にしたブルータスと友人との別れの場面に長大なページが奉げられているのだし、勝利者アントニーアスにしてもオクタビアスにしても死者に対する敬意を忘れないのである。
 
 もう一人忘れがたい印象を残すのはブルータスの妻・ポーシャの場合であろう。カトーの家柄に連なるものの一人として、かつブルータスの妻として悲劇に正面から対峙しようとする姿勢もまた、公平さと云うものが指標であり得た固有の時代の輝きなのである。
 
 あけましてお目でとう!