アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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冬の終わりに読む『冬物語』――夜話あれこれシェイクスピア、『ハムレット』、『オセロ』そして白蓮・ アリアドネ・アーカイブスより

 
――この文章を柳原燁子の霊前に奉げる
 
 
 
 三月に入っても寒いままの日が続いている。気温はあがらないけれども日差しはすでに冬のものではない。模様を変化する雲と雲との変容の間歇から瞬時開けた薄水色の空に浮雲がぽっかり浮かんでいたりする。そんなある日に外出するのも億劫で、人と会う用事もなく、シェイクスピアの『冬物語』のことを思い出した。
 シェイクスピア研究の現状を踏まえて言うのではない。『冬物語』や『十二夜』、そして『ヴェローナの二紳士』などの、ゆわゆるロマンスもの、という分類に従えば、これらのものを読んで感じる最大の関心は、具体的にシェイクスピアがどういう人物であり、実際の実人生のなかでどのような人間を見知っていたか、と云うことになる。すくなくとも四大悲劇や史劇の幾つかを読んで、流れ者の旅芸人の少しばかり学のある座長か脚本家兼俳優の一人とすることには、――とりわけ映画『恋するシェイクスピア』などの理解水準には無理を感じる。シェイクスピアが現実と云う名の舞台でもなにがしかの重要な役割を果たしたと云う現実的実在性を強く感じるのは『冬物語』や『十二夜』などを読んだ読後感から感じられることである。
 実証的な研究を踏まえて言う訳ではないのだから、聞き流してほしいのだが、とりわけ強く感じるのはシェイクスピアの女性観である。四大悲劇と云えばヒーローの方が注目されがちであるが、『オセロ』のデズデモーナはそれほどでもないにしても、『ハムレット』のガートルードのような複雑な性格を、――高貴な性格であるとともに生身の愚かさを併せ持つ――ちょっと作家の想像力だけで創り上げると云うことはあり得ないことのような気がするのだが。
 ガードル―ドとは、猜疑心の強いそのくせ正義感の強い狂人の息子を持った母親の悲劇である。実際に、息子の部屋に呼びつけられて、寡婦の性的な放逸や放埓、不行跡を糾弾されて抗弁できない、世にも哀れな母親と云う役柄を、シェイクスピアはどこから導き出してきたのであろうか。物語は最後まで読むと、老獪な隣国スウェーデンの王子フォーテンブラスがデンマーク王国宮廷の内紛劇を冷静冷酷強かに読みこなしながら、最後は棚ぼた式に王国を手に入れると云う無残な話である。ここから解かるのは、王国には内乱に導きかねない不安定要素がかねてからあり、それはあるいは国王の政治家としての無能さが絡んだ政治劇が想定されることだろう(亡霊として出てくる彼の余り上等とも思えない言動から忖度すればそのような人間像が想像される)。国内の不安定要素とは、王族の力学的構図と絡みあいつつ眼に見えるものとして現象する。それはある場合は国王と彼に最も近い血縁の兄弟の王達の争いと云う形をとるものであるかもしれず、あるいは我が国の推古天皇の例のように結果的には摂政と云う形を暫定的なあり方、仮定性の既成的なありかたのひとつとしてとるかもしれない。いずれにしても、無能な国王に嫡子がいれば、相当程度に彼が青年期において不安定要素を毒素のように取り込むことはあり得ることだろう。
 まあ、以上のことは通常の研究書やオーソライズされた解説書の類には書いてないことなので、ここだけの話にしてもらいたい。わたくしが読んだ場合に、どうもそのように読めてしまう、と云うことだけを言い訳として書いておきたい。
 さて、そこでガートルードのことなのである。世にも聡明な母親が、気が違った息子からあらぬ嫌疑を抱かれたとき、どうするか。北条政子のようにお家大事と息子たちを一人ひとり始末してしまうことを関東武士の気風として是認するのか。それともハムレットの嫌疑は煙のないところにある秘められた火種のように、現実のレベルとしては現象としては出現することはなかったけれども、可能性としてはあり得る、あるいはそうなっていたかもしれない高い蓋然性を有する準事実として、責任の一半を引き受けようとする高い倫理的動意を持とうとするのか。現実に互いが自己の正統性を主張して争えば醜い骨肉の争いを現象させることになる。そこでガートルードがとった道は、我が国の古の高貴な人々、――山背大兄王長屋王のように、あらゆる抗弁の道を自らに禁ずると云う方法である。息子の狂気が現実面において救いがたいほどの破壊力を作用し始めたことを理解したとき――オフィーリアの死とその父ポローニアスや監査役としてつけられた二人の学友の惨殺、など――、やがてハムレットのテロルの刃が遂には自分とクローディアスに及んだとき、彼女は御前試合をクローディアスらの企みであることを理解しながら、初めて悲劇に向かって渦を巻くその成り行きに身を任せ善悪を是認し超越する。筋書き通りに、クローディアスがハムレットに毒入りの葡萄酒を勧めたとき、彼女はこの時、いままで無為に流されるまま使われることのなかった彼女の能力を初めて使ってみる機会が到来したことを理解する。いったんはハムレットの手に渡されかかった盃を引き受けて、これはわたしが飲まなければならない、と言い切るのである。この段階でガートルードは実在の女性から伝説上の人物となる。優柔不断でふしだらな女性と思い疑われて、またハムレットの目からも一方的に姦婦のように描かれていた彼女が、実はすべての事情を理解していた情理を踏まえた偉大な女性であったことが明らかになる。息子が愚かである場合、いな、単に愚かさの限度を超えて何かといえば原理主義的な理論と正義感で武装した、観念論的事挙げのアジテーションに熟達した、一面では頭脳明晰なとも云える国家のテロリストが、こともあろうか、我が子であると云う事実の認定がもたらす彼女の苦悩は深かった、と云わなければならない。
 高潔な道徳観と倫理的な潔癖さのゆえにあらゆる抗弁の道を閉ざして従容と死への道を歩むと云う意味で、『オセロ』のデズデモーナも心理的な血縁上の姉妹関係にあるとは云えるが、彼女の場合は、明晰なガートルードのように、生起しつつある進行形としての悲劇的事件の構図や情況の布陣の全体が読めてはいない。若いから当然のこととも云えるが、彼女の育ちの良さがゆえに人を疑うことを知らずに育ってきたと云う性格ゆえに、彼女が辿ることになる運命は余計に哀れに感じられるドラマ造りとなっている。
 『冬物語』の制作年代を最晩年に近い頃と想定するのは、円熟期の作品とも云える四大悲劇の二つを踏まえているとしか思えない作品造りがなされているからである。デズモデーナのような純粋で無垢な乙女が妻となり婦人となって、不可解な運命に遭遇する。知的な理解力は高いのだが固有の倫理観ゆえに現実的な解決の手立てには無関心で、自らの死を唯一の解決としてしまう方を、不条理な選択肢としては選んでしまう。女性としての成熟度において両者は相当の開きがあるけれども、デズデモーナとガートルードは一筋縄ではいかない深い人間性の同情と理解を要求する、と云う意味では人間としては大変に類似していると云わなければならない。
 『冬物語』が描こうとしたのは、かかる聡明な女性が男社会の柵に雁字搦めに取り込まれた社会のなかで生きる過程で、理不尽な運命に巡り合う。知的には聡明でも女性としてのあらゆる実際的な手立てを欠いたなかで、辛抱強く時と風雪に耐え、そして復活する、奇跡のような物語の終始をわたしたちはシェイクスピア文学の総決算として確認することになる。
 わたくしは思うのだが、かくも王侯貴族の高貴な素性と心理を描き得たシェイクスピアとは、政治の中心部近くにいた名のある政治的有力者が名付けられた仮の名前であったのではないかと思う、――昔からある素人じみたシェイクスピア伝説の一部を是認する。たぶんわたくしの想像は間違っていよう。しかし何度読んでもシェイクスピアが描いた最晩年の人間群像は、実際に、現実に誰かそれに相当する人物を彼が見知っていなければならない、と思わせる記述の仕方なのである。
 さて、ここからが空想から妄想に近くなるのだが、かくもシェイクスピアが生涯をかけて描くことになる使命を見出した偉大なる女性とは具体的には誰だろうか。わたくしはメアリー・スチュアートではないか――女王陛下エリザベスの人間像とも複雑に紆余曲折を描き重合しつつ重なり合いながら――と思っているのである。あるいはメアリーに大変に似た人間像が、あるいはメアリーの記憶を伝える人物が王朝の近くにいたのかもしれず、彼女はシェイクスピアの見知っていた一人であるのかもしれない。彼女は彼の極めて近くにいたと思う。近世イギリスの血も涙もない冷徹無慈悲の歴史が、結局は偉大な女性像の創出をもって華麗で華やかな寿ぎのなかに完結する、そんな歴史的過程をシェイクスピアの文学のなかにみるような想いがするのである。
 
 さて、なにゆえ『冬物語』であるのか。ロマンス劇としての物語の概要から想像すれば冬の終わりを思わせるような神秘的なある種の祝典劇じみた終わり方が用意されているゆえにでえあろうか。イギリスの血なまぐさい王朝政争史が一応の終わりをみせたと云う現実の歴史的意味もあるのだろうか。これは前にも書いたことがあるので繰り返さないが、母と子の寝物語を思い出として「冬物語」としてシェイクスピアは語ったのではないか、と云うのがわたくしの想像である。
 『冬物語』にはマミリアスと云う聡明な母親思いの少年が出てくるが、父母の関係がうまくいかないのを気に病んで、それを我がごとの罪のように意識して死んでいく。オフィーリアのように、おもえば陽炎のように儚い存在なのであるが、母親思いの子供ならどこにでもいる、双親揃って大好きだと云う子供もざらにいる、しかし一家に起きる出来事を、その運命を我がごとがこの世にありうることの根拠として、家族の絆の要にある位置として自らを理解し感受すると云う子供と云うものは、やはり限られているのである。冬の夜の寝物語からそれほど外れてはいない十歳に満たない少年が、母親を救えなかったと云う失意の思いを抱いて死んでいく、これも実在のシェイクスピアが実際に見聞しあるいは経験した出来事であったような気がする。
 話しはまたあらぬ方に飛んでしまうのだが、先月、筑豊の伊藤伝衛門邸に二度目の訪問を果たした。最初のときは時間の関係で一部見残した展示室の一遇に、白蓮・柳原燁子とその子息の香織の写真を見出した。学徒出陣前の写真であるらしく、香織は仄かな笑みを浮かべてこちらを向いている。わたくしは聡明で優しそうな彼の性格を直感した。彼の戦死に至るいきさつを知っているので白蓮の胸中を思い遣って胃が底から抜けるような叫びが出そうになって口元を手で覆った。白蓮はシェイクスピアの『冬物語』を読まなかっただろうか。大正天皇を従妹にもつ、我が国を代表する偉大な女性柳原燁子は、ラムのシェイクスピア物語を子供たちに読み聞かせしなかっただろうか。細腕で、高貴な血筋と才能だけを手掛かりとして権力に対抗した白蓮・柳原燁子!その結果彼女が大日本帝国から受け取ることになる無残なプレゼント!わたしは病身の宮崎龍介(滔天を父にもち西南の役で有名なかの宮崎八郎を叔父にもつ)を入れた親子三人が官警の目を気にしながら冬の夜の隙間風のある困窮の畳の部屋に川の字に寝て、――わが国では山上憶良貧窮問答歌の万葉以来のならい――シェードの仄かな灯をたよりに長い長い幸せの時であった一夜の寝物語が語られた「冬の時代」の歴史の一齣をはるかに想像していた。