アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ポスト・アンティゴネ― アリアドネ・アーカイブスより

ポスト・アンティゴネ―

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 父オイディップスの死後、アンティゴネ―は、テーバイの王位を廻って相争う兄弟の死の一方を、政治的な状況の如何にも関わらず、敗者のために、家族の一員として弔うために、死者に砂をかけると云う、反体制的な行為をあえてする。その結果、アンティゴネ―はクレオンの方からは憎からず思われる身でありながら、見せしめのために牢獄に囚われる身となり、自らの下した不合理とも見える選択を廻って、再度、再再度クレオンの側から翻意を迫られるが、肯んじえずに牢獄の中での孤独な次回と云う行為を選ぶ、また、彼女の婚約者でもあったクレオンの息子ハイモーンもまた後を追い、ハイモーンの母も息子の死を悼んであとを追う、と云うものです。
 
 ソフォクレスの『アンティゴネ―』には、前段と後日談とがあります。アンティゴネ―の物語が如何にして生じたか、その所以を語るものとして、またそれ以上の知名度を持った物語としてオイディプスの話は有名です。しかしながら、アンティゴネ―の死後にも、綿々と、血なまぐさい話は続き、その経緯については余り雄弁には語られなかったようです。婚約者であったハイモーンの死と、その母親の死は余りにも付け足しのように語り置かれたにすぎません。
 しかし、ソフォクレスが雄弁には語らなかった、ハイモーンとその母親の殉死の物語こそ、もう一つの偉大な物語の存在を示唆するものであったのかもしれません。
 
 ヘーゲルは意識の発展の諸段階を、対象意識、自己意識、理性の三段階に腑分けして示しました。これをオイディプスアンティゴネ―を廻る一連の物語へと、敷衍してみますと、次のようになります。
 第一段階・対象意識、オイディップスとは誰か?と云う、推理小説の謎解きにもにた、人間の実存についての物語。
  第二段階・自己意識、オイディプスの物語は、重たく予感に満ちた悲劇ではあるけれども常に認識の物語であって、認識が選び取られたものとしての行為や行動を乗り越えることはない。それゆえ、オイディプスの物語の最終的な結末は、自らの眼球(認識)を抉り取る、――つまり認識を抉り取ると云う、行為と云う形式が不可避の無意識的意思として選び取らざるを得ない段階であった。これを受けて、他ならぬアンティゴネ―の、世俗や権力の掟に逆らってでも家族を弔うと云うあり方は、自らが選び取った実存的選択の段階と云う感じが拭えない。つまり、オイディップスの物語が認識を廻る物語であったのに対して、初めて行為の問題が登場する。行為とは、認識の反対物ではなく、認識が高められた高位の形式なのである。
 アンティゴネ―は、認識が高められた行為や行動と云う段階で自らの死を選択的に選ぶ。アンティゴネ―の劇的な悲劇的死のあとに何事もなかったわけではなく、ハイモーンの嘆きがあり、自ら死に急いだ息子に対する母親の死があって、オイディップスの誕生に纏わる不吉極まりないギリシャ悲劇はかくて一部終始が完了する。
 それでは、ハイモーンとその母の殉死の意味するものは何だろうか。つまりヘーゲルの意識の発展的諸段階を追体験してきて、認識、行為と、われわれは世界を経めぐったのであった。行為の後にわれわれが観るものは何であろうか、――おそらく、それが言葉であろう、と思うのである。
 烏滸がましくも、ヘーゲルの意識の諸段階説をキリスト教界に敷衍しつつ、三位一体論に言及すれば、言葉の揺籃の中でギリシア悲劇は、言葉の受肉化と云う未曾有の経験をしたはずである。さらにキリスト教的世界に対して厚かましくも敷衍するとすれば、認識の問題を旧約的神の概念で理解し、行為の問題を受難と云う選択的意思の問題で理解し、言葉が御言葉となる言語の受肉化の問題を聖霊的言語で理解すると云う事態がその次に来るのではないのか、と云うのがわたくしの妄想にも近い空想である。笑えば笑え!
 
  ハイモーンとその母の死、オイディプスの誕生に纏わる不吉な予感から始まった一連のギリシア悲劇の一部終始の顛末を見届けて、絶望のあまりの自死であったのか、それとも悲劇の死者たちを悼む殉死の如きものであったのか、死は必ずしも敗北とは言えず、死者たちの死を洗い清める決断的行為と到来する言語として、到来する言語が根源的言語の中で出会い、干からびた黙示論的言語を言葉の中で蘇生させる、その時、到来するものと蘇生するものとが出会う、過去と未来とが渦を巻き一つのものとして円環が閉じる、時が描く円環の光の環こそ、永遠と云うもののまた別の名称なのである。