アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高橋和己『わが解体』(1969年) アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
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 高橋和己(1931年8月31日~1971年5月3日)について語ろうとすれば死者に鞭打つような冷酷なことを言わなければならない。わたくし自身もまたそのように言わねばならない自分自身の冷酷さを嫌悪する。それはお互いが抱いた文学観の相違、――高橋和己は、文学や言語が持つ特権性を、少なくとも固有な感受性のレベルでは理解していなかったのではないのか。それは彼が専攻した中国の文化が持つ士大夫的な中華的規範性意識の矜持とリゴリズムも関係していようが、近代と云う時代が持つ鵺のように奇態で不可解な、善悪が混淆して不鮮明な部矛盾と害毒の洗礼を、つまりロマンティック・イロニーを通過していなかったのではなかったか。だから無邪気とも云える正攻法の『憂鬱なる党派』(1965年)や『邪宗門』(1966年)のような、内部確信的な本を書くことが出来たし、肉体はたとえ破壊されても結局のところ、彼の当為としての文学的良心が言語のレベルで原理的に揺らぐことはなかったのである。つまり主要なことは人生と云う舞台で生じてしまったために、文学は抜け殻のようなものになったのではなかろうか。
 それゆえにこそ、と云うべきか、彼は聴くべき程の耳をもって時代の痛みに分け入り、『わが解体』(1971年)のような優れた臨床的な病理の軌跡とも云うべき論考を残すことが出来たのである。『わが解体』は権力に抗したもののみに向けられた反権力の連帯の書ではない。権力と反権力闘争の狭間で時代の闇の中に人知れず消えて行った、声なき声の一部の大衆、その大衆のなかでも内ゲバで倒されていった死者たちへの鎮魂の書だったのである。なぜなら内ゲバで倒れたもの達は時代の正史においても、はたまた抵抗史によっても記載されることはなかったし、しかもあろうことか、世間を憚る生き残されたもの達の間でも、自分たちの倫理的アリバイ証明の配慮からか、タブー視され闇に葬られたからである。高橋和己が語らずして誰が語ってくれると云うのであろうか。家族や身近なもの達の口も固く閉ざされがちであった。
 であるから、「わが解体」とは、当然、当時予想させたであろう時代思潮としての「自己否定」とは異なっている。むしろ高橋和己は自らを痛めつけるような自己抹殺の願望を通してでしか、歴史の闇に葬られた物言わぬ少数の大衆に連帯できるとは考えていなかったし、そうした極端に卑下した敬意の在り方によって、死者たちに対する尊厳を表現しようとしたのである。もちろんそれらの死者たちのなかには、50年代の六全協時代の死者たちも含まれているし、先の大戦で散華した若者たちも含まれている。高橋和己の嘆きは、それらの死者たちが、等しく平均値以上に優れた人間たちばかりであった、と云うことだろう。歴史の狡知は、何故優秀な人間を、心優しき青年たちの群像を、生血の渇きのように贄として欲するのだろうか。文学者高橋和己の無限の慟哭がある。『わが解体』は、読む者の側に、書くものに対するかかる敬意がなければ読むことなどできはしないのである。
 『わが解体』とは、自己を追い詰めていった疑似自殺と自己処罰の書である。高橋和己が如何なる処罰の対象として該当したと云うのか。高橋和己を殺したのは、少なくとも権力ではなかった。殺したと云う言葉が穏当を欠くと云うのであれば散華と云う言を使おう。彼を散華に至らせたのは、革命や変革を欲する側の論理に内在する腐敗の論理であったことがこの書を読めば明らかになるだろう。
 『わが解体』には、同書の他に「三度目の敗北」(1970年9月)、「死者の視野にあるもの」(1970年7月)、「内ゲバの論理はこえられるか」(1970年10~11月)が収録されている。「死者の視野にあるもの」は『明日への葬送』(1970年)を本意を貫き通すことを得ず編んだ編者としての、欄外に書いた乱れ書きのようなものである。「内ゲバの論理はこえられるか」はそれ自身優れた、変革するものの側の論理と倫理の質を問うた歴史的概説の書である。
 「三度目の敗北」は、短いけれども高橋和己の生涯を要約する特別の文章である。戦争末期の太平洋の海原に散った散華の世代への思い、五十年代の六全協への思い、そして六十年代末期の自らの周辺にいて不本意ながら死者たちの隊列に加わって行った三つの世代への思いを重ねて、今どき流行らない殉死と云う言葉に仮託して、言葉を超えたものとしての肉体が言語と化し、言語が肉体と化す、そうすることによって得られた生と死の均衡によって死は、初めて黄昏に架けられた橋として、語られ得るものとなり得る。かかる和己の死の儀式に奉げられたのが本書である、――自己追悼と云う稀有の様式において。
 
 蛇足めいたことを付け加えれば、この書の主要な大部分を書き終えた段階で三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)はまだ決起に至っていない。この書の稿正摺りを和己が読む段階で、三島は死んでいた。イデオロギーの違いはありながらもこの時期の二人の間には類似がある。そして、もうひとり、ほぼ三十年後の月日を閲して遅れ破壊のように逝った戦後を象徴する最後の人物、――江藤淳(1932年~1999年)。言わずと知れた文学界に狭く世界を拘らないオピニオンリーダーとして戦後を代表する気鋭の文芸批評家でありうとともに、名高い漱石研究家の権威でもある。その明治の気風を格調高く漂わせ山の手文化の最後の残照を気概のうちに秘めた大和魂漱石研究家が、明治期の乃木希典事件に対する批評と所感を遠い残響のように記憶と伝承の世界に響かせながら、かって森林太郎が最後に「鷗外」と云う号に反旗を翻したように、国家、社会を論ずることよりも自己否定的に、わたしとあなたの関係――フランス語で云うtutoyer(チュトワイエ)にこそ殉じたいと云う、大方の江藤のファンを甚く失望させ、大きく修正する形で、戦後思想の原点とも云うべき段階へと、回帰された思想と思考の形があったことも付け加えておく。
 江藤は正しかったのである。江藤の墓は慶子夫人の傍らに並んであると云う。