アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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なぜいまごろ石原慎太郎を読むか アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 石原慎太郎に注目したのは、如何に若年の頃のいわゆる「怒れる若者」が「いかれた痴愚老人」になるのか、つまり過剰に若者意識に阿り、根本的なところでは既存の価値観に寄りかかりつつも、若者意識の特権性を無分別に主張したものほどこそ、後年、保守反動化する度合いが高いのであるが、これは何故であるのか、欧米の文化文明に接触の度合いがある程度高い、特殊に文明と文明の狭間に生きざるを得なかった発展途上国の固有で屈折した文明論的接触のあり方のなかで、いわゆる「洋行帰りの保守主義者」の問題とともに興味あるイロニックな課題ではある。
 
 わたくしの作家論の進め方はあれこれと一次的文献以外の資料や雑録の類を一切読まない、作家の背景にある実証的な事実や伝記的事実は決して軽視はしないけれども、作家論的な課題とは一応別物だと考えるからである。作家のこれといった代表作を特異的に選んで、そこに表現された本質を、言語表現の問題として、一直線に、果敢に作家の本質に突入する、いわば一点突破型の読み方なのである。この場合作家である以上は、それが固有の言語と文体を持つ作家であることが最低の条件にはなるのだが――文体を持たない作家は論外となる!――作品の中に、作家であることの課題が、人間であることの課題と同時に顕れる、これは作家の意図や主張を再現すると云う、印象主義的な批評とは別の読み方、あり方である。作家が見られたがっているような自画像ではなく、作家の意識を超えた客観像を提出できたら、と思っている。ここから得られた作家の客観像は、得てして作家自身にとっては気に食わないことは往々にしてありうることである。(慎太郎としては政治家であると同時に文学者としても何事かを成し得たと思っているだけにショックだろう。もしショックだと思うなら昨今の彼が『太陽の季節』に描かれた、手加減を知らないボクシングの精神を忘れたものとなり果てたからである。)
 これを読んだら、慎太郎!フラッシュを浴びた報道カメラのように、目を激しく瞬かせるだろうか。
 
 処女作に全てがあると云われるが石原の場合もまた『太陽の季節』に全てが尽きる。この作品は発表当時に於いては新旧の世代間に於いて、毀誉褒貶の嵐を巻き起こしたベストセラーであるかに聴いているが、今日読んでみると意外と古臭い。
 要約すると、世の中のルールや道徳に反抗したがる首都の著名私立高校の生徒がフランス文学まがいのアバンチュールを繰り広げる、というものである。こうした話を聴かされると、当時のわたくしたち田舎の青年たちは、自分たちの衣食住の生活とはまるで隔絶した文化と生活が東京にはあるのだと思って、いたく感激もし憧憬の感情を掻き立てられただろう。正面切って名指されているわけではないが、実在の慶応高校の生徒が実際にこうした私生活を当然のことく送っていたかの真偽は別としても、戦後のフランス文学が過去のものとなってしまった以上、お里は知れているのである。かかる風俗面の当時の新奇性は、今日においては殆ど問題とはならない。
 
 それではどういう点が今日においても読むに価すると思わせるのか。それは二人の登場人物の造形性の卓越である。ヒーローの方から云おう。彼はお金も暇も時間も女も何もかも程々に、全て満足されてある状態にある。と云うことは、別様に言えば人間たることに於いて全てに満足できない、という意味でもある。
 満足できないとは、衣食住に足りてあると云う次元を超えて、現実のなかにリアリティをどう感じたらよいのかが分からないと云う意味である。当時、食うや食わずの貧困のなかにあった地方の青年や少年たちからすれば贅沢な悩みであるが、それは仕方がないのである。ブルジョワだから真の人間的な悩みは存在しないなどと、共産主義者のように主張することは道理としてはできないのである。
 それで青年を捉える感覚は、スポーツと賭けの感覚が支配的になる。スポーツやヨットや賭けの不確定性のなかに、リアリティがあるのではないかと思い込むのである。それで彼の人生観なり人生に対する構えは、食うか食われるかの闘争、つまりボクシングの打ちのめすか打ちのめされるかという構えが全てにおいて基本的な人間存在の在りようとなってしまう。
 愛もまた、ボクシングの過程と同列なものとしてここでは理解されてしまう。ボクシングの神髄は撃ち込まれて撃ち込まれた果てに、生と死にとなりあった被虐的な陶酔の内に死を経験するか、或いは仕留めたことが確実な相手を更にさらに追い詰めて、ダウンさせる、再起不能なまでに打ち崩す、加虐的な喜びのなかに相手の死を透して死を経験する、反転するいずれかなのである。愛もまたこうした戦闘的で闘争的な過程を経て、恋人を死に至らしめてこの小説は幕となる、身も蓋もない小説である。
 
 『太陽の季節』を深く味わいたいと思ったら映画もまた同時に鑑賞するとよい。こちらは、本来は話題提供者だった弟の石原裕次郎が端役で出ていて、彼のデビユー作となったことでも知られ、実はそのこと以上のものがあって、実は『太陽の季節』は裕次郎の季節だったのだな、と分かる仕組みに映画はなっているからである。
 
 小説と映画の最大の違いはどこにあるか。それは南田洋子によって演じられたヒロインたちの群像である。映画のクライマックスは、既成的な性愛観を嘲り貶めるために、恋人を兄にセックス用品として譲渡すると云う、加虐性のなかに見出された被虐的な喜びを見出す場面に表現されている。兄弟の間の密約には恋人の性的なリースのお値段が一コマ五千円であると云う、それを聞いた恋人は裕福なブルジョワの娘であるから、その都度五千円を振り込んでその都度兄弟の意地の悪い目論見をチャラにしてしまう。振り込みの金額が積み立てられて数万円になったところで、後ろめたくなった兄は意欲を、性的な関心もまた萎えてしまう。この原作には固有には描かれていない「兄」が、実は在りし日の慎太郎と裕次郎の偽らざる関係を彷彿とさせてとても面白いのであるが、ここではこれ以上追求しない。
 
 さて、物語の破たんは恋人に赤ん坊を身籠ったことによって到来する。当時の性愛観や価値観に従って、おろしてくれと頼めばよいものを、既成の道徳や価値観に反抗すると云う建前でこの小説は書かれているのだから、論理的にはそれはできない。かといって高校生に普通に生ませるわけにもいかず、双方で逡巡しているうちに手遅れとなって恋人は病院であっけない早産の死を迎える。
 そこで何時の世も変わらぬ卑怯な男はどうしたか。ここが小説と映画では根本的に違っている。ヒーローは恋人の葬儀に出向いて訳の分からぬ激情に駆られて位牌に向かって香炉を投げつける。遺影はひび割れ画飛散する。ここで文学者である慎太郎の解釈は、死ぬことに寄って遺影写真のなかの恋人の像は却って永遠なものになり、青年の人生を追うように最後まで付き纏うであろう永遠の課題として、最後は自分が死の思い出に絡めとられたと云う敗北者の意識に囚われたことを認めざるを得なくなる。つまり慎太郎の好みの表現を使えば、ゴング間際で、致命的に近いノックアウトの一打を急所に浴びてしまった、と云うことになる。ここでも世俗の価値観に従って、自己贖罪であるとか罪の意識であるとかと認めてしまえば簡単なのだが、それはこの小説の建前上、論理的にはできない。それで言葉にならない感情の高ぶりのなかでこの小説は非言語的な結論を告げてこの小説は終わるのである。
 
 映画ではどうか。遺影写真に香炉を投げつけるまでの過程は、映画化という作業がオリジナル小説をなぞるものである以上同じである。しかし映画では、慎太郎の世界ではなく裕次郎の世界であったことが深く印象づけられる。端役とは言え、裕次郎に与えられた役割がなかなかにこにくいものがあって、二人の悲劇的な進行の物語に向けられた眼差しが、暖かいのである。この暖かさは、事情を知るものか当事者でなければ分からない血の通いが感じられる。慎太郎は裕次郎からこの話を聴いて小説を書いたことは知られているが、彼の文章力は別の意味で事件を別な風に発展させたが、より核心的な部分については慎太郎の洞察力では届かない、裕次郎に固有な世界があったとみるべきだろう。
 
 それはヒロインの描き方の違いに顕著に顕れている。ヒロインは何不自由のないブルジョワの娘として描かれ、世間的な知においても知性においても青年を遥かに凌駕している。年上感のある女性として描かれている。これもフランス文学の影響か。
 その理知的な娘がやがては本気になる、その場面転換をが素晴らしい。境位の転換を通じて彼女がリングの回りにひとり陣取るとき、同僚たちはまるで眩しいものを見るように席を空ける。犯しがたい気品が溢れリング上に伝染する。
 彼女には過去があった。相思相愛のフィアンセを交通事故で無くしているのである。そして、1955年ころといえば戦争からそう隔たってはいない、むしろ戦時の記憶がむしろ卓越して突出してくると云う、記憶と忘却の心理的幾何学模様のなかに置いて彼女を捉えてみるのは、自分の好きだった友人知人も従弟たちもまた全て懐かしい人は全て死んでしまった、という戦後の戦没者遺族の思いと重なり合う。彼女の戦後に生きるトラウマは、自分が愛する相手はみんな死んでしまうのではないかという怖れである。彼女が青年に魅かれたのも、生と死が隣会うボクシングの激しい打ち合いのなかで、愛と死が相乗された姿を死神の上に重ねて観ていたからに他ならない。
 実在した「彼女」が――名前は知らない、石原兄弟の不埒なたくらみを知ったとき、資金力にものを言わせて反故にさせる。愛の現象学に於いて負けることがなかったように世間的駆け引きにおいても負けることはない。だから赤ん坊を身籠ったときも、この取り消すことができない事実を、有利な取引材料とはせずに、男の優柔不断な罠に易々とかかってあろうことか無防備さの果てに命を失う。まるで王者のような趣きである。やはり南田洋子の美しさが慎太郎の塵だめのような世界世界からは隔絶されてあると云う超越の所以の故であろうか。たぶん、こうしたこと――王者的自己放棄――ができたのは、裕次郎がこの事件の真相を知っていたからであり、俳優としての南田洋子の際立った美しさが、なみの好いた惚れたの俗世間的な愛に対する考え方や性愛観を遥かに凌駕せしめ、超越させる何ものかを演技者として表現しえていたからである。彼女にこうしたことが当時できたのは、演技者としての技量と云うよりも、当時映画をとおして恋愛関係にあったからである。南田は、長門裕之が演じた男の不器用さを通じて愛の本質について理解し始めていたからではなかったか。周知のように、このあと二人は映画の余韻を引き摺るように婚約し、生涯支え合う関係になる。つまり映画で描かれた事件をてこの原理として、生死が分岐する離れ業を実人生においても演じてみせるのである。
 つまり女は愛を知ることによって、羽衣を取り戻した天女のように、より高い次元に於いて生まれ変わる。青年が敗北感を最後に抱くのは、死ぬことによって恋人によって復讐を受ける、という話なのではなく、愛の高貴さの前に成す術もなく男は敗北感を感じた、そうして今となっては自由に生きた戦後のつかの間の、この物語の背景となった愛の固有さの物語のことなど、誰に分かるものでもないと云う、行き場のない憤りなのである、ちょうどアンジェイ・ワイダの映画『灰とダイヤモンド』のように。このあたりの締めくくり方もいかにもフランス文学的といえば云えるし、映画論的にも、長門裕之ジャン・ポール・ベルモンドはこの時期驚くほど雰囲気的には似ている。
 小説と映画の違いは、この言葉で名付けようもない、激情的行為としてしか表現しようのない自らの内部から沸騰して突き上げてくる感情を、名付けられぬまま、言葉を超えた行為として理解したか(石原慎太郎)、あるいはそれが言葉を持たないのは愛の明晰性であると云ことを理解していたからなのか(石原裕次郎)、と云うことに尽きるだろう。
 言葉を超えた表現、などと云うことを安易に人は口にしたがるけれども、行為と言葉には固有の明晰さがある。怒れる若者が、後年如何に保守反動化するかというテーマについては、言語化しえない表現と云うものは、時代が生き生きとした革新と先進性を持っている間は良いのだが、保守反動の世界へと変質し始める時代においては、殆ど抗うすべを知らないのである。成す術もない後退の背後には頽廃しかない。むしろ自らの感情の
在るがままに居直って、偽らざるものとしてあからさまにし自己を主張し、エゴを剥き出しにして無教養ぶりを発揮する。後年、慎太郎が演じることになる「強い政治家像」の役割は、どこか低能で低級でカルカチュア化されていて、どこかで聴いたような小話、特に彼が言わなくても誰かが言ってくれそうな、二番煎じのような趣きがある。所詮弟の影からは逃れることのできなかった二流の人間のせめてものリアクションであったということか、後年の保守反動化は自らの意思に於いて選んだものではなく、処女作のなかに既に胚胎していた言葉の未熟さに由来するもの、その挙句の結果なのである。
 『太陽の季節』は、こうしたマイナス面にも関わらず読ませるし、今日においても彼の小説としては唯一小説としては素晴らしいものがある(あとは素材の新奇性に寄りかかって書いたと思われる作品が多く、文学性はゼロである)。その理由は素材が慎太郎オリジナルではなく裕次郎の世界のまた聞きを上手に仕立てたからに他ならない。他方、映画は映画で長門南田夫妻の演技の卓越によってそれ以上のものがある。この映画の制作過程においては、裕次郎の実体験に基づくアドバイスが大きかったようにも聴く。裕次郎の参画が映画に小説の世界を超えた永遠なるものに直面させたのである。
 兄は弟の世界をついには超えられず、という段落のお粗末なお話でした。高いところから恐縮ですが、座布団を一枚頂戴して宜しいでしょうか!
 
 
(追記・1)
 問題をより現代日本文学全般の課題へと敷衍してみる。
 これはアン・リ―監督による映画『ノルウェイの森』の場合にも言えることで、原作よりも映画化されたものの方が実は簡潔で優れている。これは表現媒体の違いは別として、ある種の作家が脳裏に抱き持つ諸経験の言語未然の混沌性を、一度第三者の客観的なカメラの眼を経由することで、視野がより広くもなりうるし普遍的な表現にもなりうる、と云うことだろうか、それとも慎太郎の小説も村上のそれも、映画化に本来は適しているし、反面、文学者としての固有の文体を持つことはない、文学としての固有な課題は彼らにはない、と云うことだろうか。つまり易々と仕上げてしまう軽金属ような軽さや容易さが、所詮は流行作家でしかない、ということだろうか。
 日本の流行作家が言葉を持たないと云うこともある種の風土病なのだろうか。『ノルウェイの森』もまた、あの有名すぎるエンディングを思い出していただきたい。友人の緑に電話ボックスから電話を入れて、「あなたはどこにいるの?」と聞かれて、それが自分は誰だろうと云う、自らの誰でもよい、任意の「私」としてのエブリーマン性に気づく、あの場面である。ここでも村上の言葉は現実の明晰性についていけなくて、主人公の「ワタナベ君」は話を止めて、電話ボックスの外に広がる広大な闇の存在に漠然と視線眺めやるしかないのである。つまり言葉が出てこないのである。根本には村上は自らが造形した人物を言葉として完全にとらえきれていない、と云うこともあるだろう。言葉で捉えられない真実があるのではなくて、作家として言葉を磨いてこなかったから適切な言語が見いだせないのである。村上春樹をはじめとする現代の日本人作家たちの保守性もまた、言語の明晰性と関連がありそうである。この問題はとりあえずは保留と云うことにしておこう。
 言語の壁の問題は、ヴィトゲンシュタイン問題は別としても、現代の日本語作家の宿命、古くて新しい課題なのだろうか。
 
 
(追記・2)
 『太陽の季節』は特にセンセショナルな課題とも思えない。思春期に於ける性愛と性差の問題は、一般論としては、男性の場合は性のサイクルが先に来て愛が後追いする。反対に女性の場合は、愛のサイクルが先に来て性は後に来る。この自然史的な周期のずれが、青春の愛の物語に不思議な陰影をもたらす。
 いっそう悲劇的であるのは、人生の経験が足らない彼らは自分たちの基底にある根本条件について無自覚であると云う点だろう。むかしアメリカ映画に『草原の輝き』という素晴らしい映画があったが、女は男の性の自然史が思いやることができないで、丁度子供が美味しいもの、大事なものは一番最後の楽しみに取っておくように、後回しにされた性によって二人は復讐を受ける。男は青春を「卒業」して無神経な凡人となり、女は精神を病んでしまう。