アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

学際的な学問について――稲垣良典「信仰と理性」を読む(1) アリアドネ・アーカイブスより

 
4月16日 曇り 窓からみえる山には霧がかかっている。雨が降りそうの天気である。昨日は釘宮さんに勧められた稲垣さんの本を探しに行ったが、求めるものはなくて、「信仰と理性」「トマス・アクィナス」「知ることと信じること」を借りてきた。少しづつ読んでいきたい。

その「信仰と理性」を読んでいたら、わたしも常々不思議に感じていた学際的な学問の前提についての素朴な疑問が述べられていた。

「こんにちわれわれの間で「人間科学」について語ることは、しごく当たり前のこととして受け止められている。とくに最近学際的な教育や研究の必要性が注目されるようになってからは、なんらかの仕事で人間を主題として取り扱う学問、たとえば心理学、社会学、人類学、宗教学、教育学などをひとまとめにした学部や学科に「人間科学」という名称を与えることが流行した。・・・しかし、人間を人間として科学的に考察する、という考え方のうちには、実は大きな問題が含まれているのではないだろうか」(p33)

「しかし、人間を、―-まさしく、かれが人間であるかぎりにおいて――厳密な実験や観察(内観もふくめて)という方法を用いて行われる科学の対象とすること・・・は、人間の「科学的」研究に携わっていると称する人々は、その実なんらかの幻想にとりりつかれている、そういうことにならざるをえないであろう。・・・まさしく人間であるかぎりの人間は、実験や観察などの科学的方法によって行われる経験科学の対象にはなりえないことをはっきり確認しておきたい。その理由は何よりも、人間は実験や観察によって適切にとらえられるような客観的事実につきるものではない、ということである。・・・人間を人間たらしめるものは何か・・・それは自己超越的な主体であること、すなわち、自らを超越することを通してのみ人間的であることを実現できるような主体であることだ、といわざるをえない。」(p34-35)

このような学的な人間観の恐ろしさは、

このような幻想はたんに理論的でもなければ、無害なものでもない「・・・たんなる客観的ではなく、したがって自然の一部であるにはとどまらない人間が、あたかもそうであるかのように科学的研究の対象とされるとき、そうした人間科学は人間による人間の支配、隷属、操作のための道具になってしまう危険がある。なぜなら、そこで対象化された人間は、まさしく人間としての固有の尊厳さを奪われているあらである。人間科学の提唱者は、人間科学の観念のうちにふくまれている悲劇的な論理的帰結に対して盲目であってはならないだろう。」(p37)

人間科学!
「人間」と「科学」を無媒介につないで、そこにどんな説明をする必要も感じない感性!
異常なことであるのに、普通と思ってしまう感性!
これが、つねづね私が感じる一番不思議なことなのである。

この本の初出は1979年である。政治的な季節の終りは残響としてすら痕跡をのの残さず、高度成長の波にも陰りが見え始めた時代であった。昭和・平成の享楽に浮かれ、リアリストであるがゆえに超越性を忘却したときの危険性、悲劇が何であったか。
20世紀の、現代史の一つ一つをよく想い出してください。