アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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カソリック思考における「経験」の概念をめぐって――稲垣良典「信仰と理性」を読む(2) アリアドネ・アーカイブスより

 
稲垣良典によれば、信仰と経験の関係については三つのとりうる道がある。

(1)宗教的体験は、経験的世界の射程の外にある。より限定した言い方をすれば、宗教的体験は有意味的な言語としては成立しない。経験主義や実証主義、講義の論理主義もこのなかに含めることができる。

(2)宗教的経験を経験的世界に内在すると解する立場である。宗教的な経験は人間の有意味的な諸活動、例えば文学であるとか、哲学であるとか、科学であるとかの人間的経験の諸活動の一面となる。

この「ふたつの立場においては、経験は(宗教的信仰を排除するにせよ、反対にそれをつつみこむにせよ)全体として何か閉じられたもの、あるいは完結したものとして受け取られている。経験といえば、感覚のおよぶかぎりでの自然界か、あるいは内観でさぐることのできる意識の世界と範囲を同じくするものと考えられ、経験に忠実であることはそうした経験領域の内部にとどまることだ、と信じられている。」(p40)

「われわれがふつうの意味で何事かを経験するとき、そこで同時に、その経験を成立させている条件や根拠も経験されているのであって、それはさいごに、・・・無限なるもの「経験」へと行きつくのではないのか。たとえば、具体的な知覚経験と情緒経験の根底には、それを意味づける時間・空間の経験、あるいは世界経験のようなものがあり、さらにその根底に自らの身体、記憶、ひいては自我の経験が成立している。・・・このように、人間的経験の根本構造を(経験の根拠へ向かう)自己超越性として特養づけることが許されるとしたら、こんにち経験主義者が主張しているように、信仰は経験の外に置かれることも、経験のうちにつつみこまれることもなく、むしろ人間的経験の構造そのものが言い表している当のものとして理解されるであろう」(同)

信仰とは、「こうした経験の形成、深化、すなわち自己超越の道において超越者にかかわる」、このかかわりにおいて成立する。